親鸞の生涯(四)承元の法難

こんにちは。左大臣光永です。

琵琶湖のほとりでぼさっとして来ました。ひたすら水面をながめてどぶんどぶん水音を聴いていると、魂を吸い取られるようでした。カワウだかウミウだかが波に乗ってさかんに上下してました。なるほどあれが「身を浮舟の浮き沈み」というやつかと。うれしくなりました。

本日は「親鸞の生涯(四)承元の法難」です。

法然の専修念仏は老若男女・貴賤をとわず支持を得てのびていきましたが、それにつれて反発も出て来ました。まず比叡山延暦寺から、ついで興福寺から「興福寺奏状」という形で専修念仏に対して迫害が加えられました。

しかし時の権力者・後鳥羽上皇は法然とその教団に同情的でした。朝廷内にも、法然をしたう者が多かったためです。延暦寺や興福寺からの迫害にもかかわらず、法然とその教団にとって、事は有利に運んでいました。

ところが、建永2年(1207)2月、事態が一変します。

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安楽・住蓮事件

『法然上人絵伝』などによると

法然に二人の若い弟子がありました。その名を住蓮坊・安楽坊といいました。

住蓮坊・安楽坊は共に東山鹿谷に庵(鹿谷草庵)を築き、専修念仏の教えを説いていました。彼らはとても美男子で、声がよかったそうです。

現 安楽寺
現 安楽寺

建永元年(1206)12月9日から、後鳥羽上皇は熊野権現に参詣するため紀州に向かい、京都を留守にしていました。その留守の間、安楽坊・住蓮坊は東山鹿ヶ谷(ししがたに)で法会を開いていました。

六時礼賛といって、善導の「往生礼讃」に基づいて一日六度のおつとめをしていました。特に天台声明といって、節をつけて美しく歌うことに特徴がありました。多くの人が集まりました。その中に、後鳥羽上皇の女官の姿もありました。

「安楽さまのお声のなんと素晴らしいことでしょう」
「私も、心が洗われるようだわ…もう御所の暮らしなんて、どうでもよくなってきちゃった」

こうして、その場で出家してしまいました。

「なんということだッ!」

12月28日、熊野詣から帰還した後鳥羽上皇は事の次第を知って、激怒します。

承元の法難

年明けて建永2年(1207)2月、朝廷は専修念仏の停止を言い渡します。法然以下八人が流罪となり、四人が死罪となりました。

流罪の内訳は、

法然聖人は土佐に、
親鸞聖人は越後に、
浄聞坊は備後(広島県)に、
禅光坊は伯耆(鳥取)に、
好覚坊は伊豆(静岡)に、
法本坊は佐渡(新潟)に、

成覚坊(じょうがくぼう)と善恵坊(ぜんえぼう)の二名は流罪を言い渡されたものの、慈円が身元引受人となったため、流刑地には行かずすみました。

死罪の内訳は、

善綽坊西意(ぜんしゃくぼう さいい)、
性願坊(しょうがんぼう)
住蓮坊(じゅうれんぼう)
安楽坊遵西(あんらくぼう じゅんさい)

の四人です。

「興福寺奏上」が提出されてから、1年4ヶ月後のことでした。以後、京都の専修念仏は停滞状態に陥ります。

この事件を浄土宗では「建永の法難」、浄土真宗では「承元(じょうげん)の法難」とよびます。

なぜ同じ事件なのに浄土宗と浄土真宗で呼び方が違うのか?

建永2年(1207)は10月25日に改元して承元元年となりました。2月はまだ「建永2年」です。それで浄土宗では2月時点の元号から取って「建永の法難」といいます。

しかし親鸞の著作『教行信証』には、この事件の時期を「承元丁卯(ひのとう)の歳」と書いてあります。それで浄土真宗では親鸞聖人のお言葉を尊重して、「承元の法難」と呼んでいます。

親鸞はこの事件「承元の法難」について後年、次のように述べています。

主上・臣下法に背き義に違い、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。玆(これ)に因て真宗興隆の太祖源空法師ならびに門徒数輩(すうはい)罪科を考えず、猥(みだりがわ)しく死罪に坐(つみ)す、或は僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流(おんる)に処す、予は其の一(ひとつ)なり。爾(しかれば)已(すで)に僧に非ず俗に非ず。是の故に禿(とく)の字を以て姓と為す。空師(くうし)ならびに弟子等(でしら)諸方の辺州に坐(つみ)して五年之居諸を経たりき。

『教行信証』

主上(後鳥羽上皇)も臣下も法に背き義に違い、怒りをなして怨みを結ぶ。これによって真宗をおこした太祖・源空法師と門徒数人の罪の程度も考えず、 思慮・分別もなく死罪に処した。あるいは還俗させて姓名を賜り遠流に処す。私はそのうちに一人である。であればもう僧でもなく俗人でもない。だから「禿(とく)」の字を姓とするのだ。源空(法然)と弟子たちはあちこちの辺境に遠流とされ、五年の歳月を経た。

「居諸」は歳月。

親鸞は僧であった時の名乗りから俗名を「藤井善信(ふじい よしざね)」とし、越後の国府に流されることとなりました。

「では、聖人」
「うむ。越後は寒かろうが、体に気をつけてな」
「もったいないお言葉です。聖人こそ、お体に気をつけて」

時に建永2年(1207)2月。京都を後に親鸞は越後へ。法然は土佐へと向かいました。以後、二人がこの世で再会することは、二度とありませんでした。

次回「越後から関東へ」に続きます。お楽しみに。

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