親鸞の生涯(三)興福寺奏状

こんにちは。左大臣光永です。

最近、京都駅周辺を歩くと、中国人のマナーがよくなってきたと感じます。以前のように割り込み、ポイ捨てはやらなくなりました。特に若い方はマナーがよいです。声をおさえて会話しています。

バスや電車・飲食店でサルのように奇声を上げているのは、あまり見なくなってきました(たまに見ますが)。中国政府がマニュアルをくばって指導しているとのことですが、確実に効果は出ていると感じます。

さて前回に引き続き「親鸞の生涯(三)」をお届けします。

前回は、親鸞が東山吉水の法然聖人の弟子となって、専修念仏の教えを学ぶ…いわゆる「吉水時代」の話をしました。

今回はその続き、「興福寺奏状」です。

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『選択本願念仏集』の書写をゆるされる

「ほんとうに、私が!よろしいので!」

「ええ、許可します」

元久2年(1205)法然は親鸞に、『選択本願念仏集』の書写を許します。法然の門下に入って4年目のことでした。

『選択本願念仏集』は、法然の著作で、日本浄土宗の根本聖典とされるものです。弟子の中でも親鸞をふくむ六人にしか書写が許されなかったと伝えられます。

親鸞は、はじめ法然の弟子の中で目立った存在ではなく、多数の弟子の中の一人でしかありませんでした。

しかし中国浄土教の研究を深めるにつれ、親鸞の勉強熱心が法然の目にも止まるようになります。それで、法然は親鸞に対し『選択本願念仏集』の書写を許したのでした。

同年4月14日、

「書写を終えました」

「ああ、ご苦労さまでした。さて…」

法然は自ら筆をとって、書写した一枚目に「選択本願念仏集」と題字を書きました。つづけて「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ) 往生之業(おうじょうしごう) 念仏為本(ねんぶつしほん)」と書き添えました。さらに法然は、親鸞が日頃自分で名乗っていた「釈綽空(しゃくのしゃくくう)」を、書き入れました。

そこで親鸞が法然に言うことに、

「実はもうひとつお願いがございます」
「む?願いとは?」

親鸞の願いは法然の真影(肖像画)を描くことでした。

「それは構いません」
「ありかとうこざいます!」

同年閏7月29日、親鸞は真影を完成したのでこれを法然に見せます。すると法然は「南無阿弥陀仏」の名号と、善導大師の「往生要集」からの一文を書き入れました。

親鸞はよろこんで、

「念仏による往生はこれで决定した。喜びの涙を抑えることができない」

そう記しています。またこの日、親鸞は「綽空」の名をあらため、法然から新しい名を書いてもらいました。ところが問題の「新しい名」は何なのか?親鸞自身が書いていません。おそらくそれが「親鸞」であろう。この時親鸞は、親鸞になったのだというのが、現在では有力な説になりつつあります。

最初の妻

また親鸞は吉水時代に、最初の妻を持ったようです。その時期は法然から『選択本願念仏集』の書写が許された直後あたりと思われます。お前を一人前として認める。だから妻を持つことを許可する、というわけです。

しかし親鸞の最初の妻については、名前も、素性もわかっていません。

恵信尼(えしんに)は親鸞の妻として有名ですが、後妻だったようです。しかし一方で、恵信尼こそ唯一の妻という説もあります。その場合、一般に言われているように親鸞と恵信尼が出会ったのは越後流罪中ではなく、もっと早く、京都で出会っているとするほうが自然です。

いずれにしても親鸞の結婚については不明点が多く、今後の研究を待つほかありません。

興福寺奏状

元久2年(1205年)10月、今度は南都の興福寺から声が上がります。

「法然の専修念仏は、まことにけしからん!」
「もう黙っていられないですよ!」

興福寺のリーダー的立な場にある僧たちが朝廷に「専修念仏の停止」を訴えました。また法然はじめ門弟たちの九つの過失を書きならべ、これを後鳥羽上皇に奏上しました。世に言う「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」です。

文書の草案を書いたのは京都笠置寺(かさぎでら。京都府相良郡笠置町)の解脱坊貞慶(げだつぼうじょうけい)といい、南都仏教の実力者でした。

「興福寺奏状」によると、法然および門弟たちの過失は以下の九つです。

一、新宗を立てるの失
法然は、正当な論拠も、朝廷の勅許もなく、勝手に新しい宗派を名乗っている。

二、新像を画(かく)するの失
専修念仏者だけが阿弥陀仏の救いにあずかり、天台宗や真言宗は救われないという間違った絵図作っている(念仏教徒は、摂取不捨曼荼羅などという新しい仏画を描いていた)

三、釈尊を軽んずる失
阿弥陀仏のみを重んじ、釈迦を軽んじている。

四、万善(まんぜん)を妨ぐる失
念仏のみが大事だとして、寺の造営や仏像の造営といつた良い行いを妨げている。

五、霊神に背く失
春日社や八幡社など、日本古来の神々に背いている。

六、浄土に暗き失
極楽往生にまつわる教えのうち、念仏だけを重く見て、考えが偏っている。

七、念仏を誤る失
さまざまな念仏の種類がある中で、もっぱら称名念仏にだけ偏っている。

八、釈衆(しゃくしゅ。釈迦の弟子)を損ずる失
囲碁・双六・女犯(にょほん)・肉食(にくじき)は往生をさまたげないといって(従来、僧侶には禁止されているのに)行っている。

九、国土を乱る失
古来日本仏教は仏の力で国を治める鎮護国家の考えから起こってきたが、凡夫救済を旨とする浄土宗には、鎮護国家の発想が無い。

以上、九か条の過失を並べ、興福寺は法然および浄土教団の罪を朝廷に訴えました。

「さて、どうしたものか…」

当時の政治の中心人物は九条良経です。

九条良経は父兼実が法然の熱心なファンですから、法然と専修念仏にも理解がありました。かといって藤原氏の氏寺である興福寺の訴えをむげには出来ない。板挟みになった九条良経が出した結論は、

「現在、専修念仏の門徒らが起こしている問題は智慧の浅い門徒が暴走したまでである。法然の真意ではない。だから処罰するには当たらない」

というものでした。

これでは興福寺は納得できない。

「法然は仏法の怨敵。彼と弟子の行空・幸西・遵西を処罰しろ!そして専修念仏を停止せよ!」

そう言って譲りません。交渉にあたった蔵人頭・三条長兼は九条兼実・良経父子に仕えていたので、法然の教えをよく知っていました。けしてそんな興福寺がワアワア言っているような、法然聖人は悪い人物ではないと知っていました。そこで朝廷で話し合いとなりました。

「聖人のような立派な方を処罰すれば念仏が衰退します。それこそ罪業です」
「では、聖人はのぞいて行空・遵西の二人の罪状を調査する、ということで」
「ですな、それで興福寺もある程度は納得するでしょう」

という流れになりました。後鳥羽上皇も、この時点では、法然と浄土教団を弾圧するつもりはありませんでした。むしろ同情的でした。なにしろ朝廷にも法然の信者は多かったのです。

ところが翌年の建永元年(1206年)、事態が一変します。

次回「承元の法難」につづきます。お楽しみに。

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4/28(日)17時~京都駅八条口徒歩10分。長福寺にて。最終回。小倉百人一首の歌を会場のみなさまとご一緒に読み、解説していきます。86番西行法師~

解説:左大臣光永