親鸞の生涯(ニ)吉水時代

本日は、親鸞の生涯(ニ)です。

「親鸞の生涯」第一回
http://history.kaisetsuvoice.com/Shinran01.html

法然坊源空 その人物

法然坊源空は長承2年(1133)美作国の押領使(警察署長)漆間時国の長男として生まれました。9歳の時、荘園管理人・明石定明の襲撃を受けて父が殺されます。これをきっかけに出家して、やがて比叡山に登り、修行生活に入ります。

当時の比叡山は権力闘争と出世競争が渦巻く世界でした。僧兵たちは都に繰り出しては「強訴」といって朝廷に要求を突きつけていました。また貴族の子弟が高い地位を独占し、修行そっちのけで出世競争に明け暮れていました。

そんな中法然は西塔黒谷という奥まった場所で学問し修行しました。法然坊源空と名乗り、修行は25年間に及びます。その間、法然は六千巻にもおよぶ一切経を五度読破し、「智慧第一の法然坊」とたたえられるまでになりました。

しかし、血のにじむような学問・修行の末にたどり着いたのは、「自分のような凡夫には悟りなどムリだ」という絶望でした。

出家したものの、いっこうに解脱に到る道はみつからず、体も心も弱り果てます。

承安5年(1175年)春のある夜。43歳の法然は善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』に読みふけっていました。『観経疏』は経典『観無量寿経』の注釈書です。中国浄土教の祖といわれる善導大師があらわしたものです。その中の一節に、法然は眼を留めました。

一心専念称弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者是名定之業、順彼仏願故

一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節を問わず久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく。かの仏の願に準ずるが故に。

一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を唱えることを、どんな時も時間の長い短いを問わず、心に留めてやめないことを、往生のための正しい行いと言うのだ。それこそが弥陀の本願にかなうことなのだから。

この一文が、法然の心をとらえました。厳しい修行・学問という自力による救済ではなく、ひたすら阿弥陀仏の名を唱え、その慈悲にすがる、他力にこそ、人が救われる道はあるのだと、示されました。

承安5年(1175年)春。法然43歳。日本仏教界にとって革新というべき、浄土宗の誕生です。

この年、法然は13歳の時から30年間を過ごした比叡山を下ります。『法然上人絵伝』によると、はじめ京都西山の広谷に庵をむすび、ついで東山吉水に移り、人々に専修念仏の教えを説きました。

安養寺(東山吉水庵跡)
安養寺(東山吉水庵跡)

吉水時代

時は流れて建仁元年(1201)4月5日、親鸞は京都六角堂にて聖徳太子の偈を受けると、その足で法然の東山吉水の庵を訪ね、入門しました。以後100日間、親鸞は雨の日も風の日も、何がおこっても毎日通い専修念仏の教えを受けました。この時、親鸞29歳。法然69歳。

専修念仏。

ひたすら念仏を唱えよ。

そうすれば、誰でも救われる。

男も、女も、武士も貴族も庶民も、誰でも救われる。

その教えは多くの人の心を捉えていました。承安5年(1175)法然が比叡山で『観経疏』(かんぎょうしょ)の真意を悟り、浄土宗を開いてから、26年の歳月が流れていました。

このころ、法然の東山吉水の庵には多くの人が出入りしていました。朝廷に仕える左大弁(書記官)藤原行隆の長男・法蓮坊信空がいました。

『平家物語』で知られる熊谷次郎直実も出家して蓮生となのり法然門下になっていました。

摂政・関白をつとめた九条兼実もいました。天台宗の僧侶のままに法然門下になった聖覚法印のような例もあります。

こうした身分ある人々から、庶民に至るまで、法然のもとには多くの人が集まりました。女性も多く集まりました。

専修念仏の勢いは最高潮に達していたのです。

親鸞は建仁元年(1201)から建永2年(1207)までの約6年間を東山吉水に過ごします。これを吉水時代といいます。鎌倉には二代将軍頼家が、ついで三代実朝が君臨していた時代です。

親鸞は吉水時代に、中国浄土教の教えを熱心に学びました。中国浄土教の根本経典といえる『観無量寿経』『阿弥陀経』その注釈書『楽邦文類(らくほうもんるい)』へと読み進み、理解を深めていきました。

信心争論

親鸞の伝記『親鸞伝絵』には、吉水時代の話として「信心争論(しんじんそうろん)」というエピソードを伝えています。

ある時、親鸞が多くの僧の前で言うことに「法然聖人の信心と私の信心は、まったく同じだ」

すると人々が咎めて、

「何いってんだ。どうして同じだって言える?」

親鸞が答えて、

「どうして同じでないことがあろう。智慧や学問の深さでいえば、私と聖人が等しいなんて、思い上がりもいいところだ。しかし事は他力信心の話だ。聖人の御信心は他力から出ている。善信の信心も他力から出ている。だから、まったく同じだと言うのだ」

それを法然聖人がそれを聞いて、言いました。

「信心が変わるのは、自力の信にとってのことである。智慧は人それぞれなので、自力に基づけば信心の度合いも人それぞれとなる。他力の信心は善人も悪人も凡夫としてひとしく仏より賜る信心であるので、源空(法然)の信心も、善信(親鸞)の信心もまったく変わらない。ただ一つである」

人々は舌を巻いたと、記されています。

元久の法難

法然の庵には老若男女貴賤をとわず人が集まり、専修念仏の勢いはいや増しに増していました。

しかし、組織が大きくなると困った者も出てきます。念仏を行わない他の宗派をののしったり、バカにする者。強引に専修念仏に引き込もうとする者。

そうか念仏さえ称えれば救われるんだ。なら何やっても自由だなと酒色にふけり、乱れた生活をする者。はては法然の教えを曲げて勝手な教義を唱える者まで出てきました。

「浄土教団のありようは、目に余る!なにが専修念仏か。
では天台の教学も、修行も、
ないがしろにしてよいというのか
そんなバカな話は無い!」

「浄土教団こそ、仏法に仇なす邪宗である!!」

元久元年(1204年)10月、比叡山の大衆が大講堂に集まり、天台座主真性(しんしょう)に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴えました。

現 比叡山延暦寺 大講堂
現 比叡山延暦寺 大講堂

世にいう「元久の法難」です。この時法然72歳。

(ついに来たか…)

法然はつねづね門弟たちの行き過ぎた行為に心を痛めていました。

いずれは既存仏教から、何らかのお咎めを受けるだろうと、法然は感じていました。

元久元年(1204年)11月8日、法然は京都にいる門弟や近隣の弟子たちに、七箇条から成る、これをやってはならぬという掟を示しました。

これを七箇条制誡(しちかじょうせいかい)、または七箇条の御起請文(しちかじょうのごきしょうもん)といいます。その原文は京都嵯峨二尊院に伝わっています。

一、仏の教えを十分に受けてもいないのに、真言宗・天台宗を批判し、阿弥陀仏以外の仏をそしることをやめよ。

一、智慧の無い身でありながら智慧のある人や念仏以外の行を行っている人に対して、好んで争論をおこしすことをやめよ。

一、念仏門においては戒行(禁止された行い)は無いといって、ひたすら酒・色・肉食にふけることをすすめ、まじめに守っている者を雑行人(ぞうぎょうにん)となづけて、弥陀の本願をたのむ者は、悪をなすことを恐れるなという事をやめよ。

一、物事の是非をわきまえぬ愚か者が、正しい仏教の教えを離れて、師の説に背いて、好き勝手に自分の考えを述べ、みだりに争論を起こして、知恵ある者に笑われ、愚か者をまどわせる事をやめよ。

一、愚か者の身でありながら特に説教を好み、正しい仏教の教えを知らずにさまざまな邪法を解いて、人を教化しようとすることをやめよ。

一、自分勝手に仏教ではない邪法を説いて、いつわって師の説だとすることをやめよ。

法然は百九十人の出家した門人に署名させ、これを天台座主真性(しんしょう)に提出しました。この時親鸞も、「僧綽空(しゃくくう)」の名で87番目に署名しています。

この時、法然にとってありがたい助け船がありました。

「わが命にかえても、法然上人をお救いしたい。
どうかお座主さま!なにとぞ」

前関白九条兼実。法然の導きで出家して円証と名乗り、愛宕山の月輪寺(がつりんじ・つきのわでら)に隠棲していました。兼実は法然に深く帰依し、法然の人柄に心酔していました。今回、法然の危機ときいて、しきりに訴えます。どうか法然上人をお救いくださいと。

「ううむ…そこまで言われるなら…」

天台座主真性は、これ以上は問題にするに足らぬと、延暦寺大衆の訴えを退け、ひとまず難は避けられました。

しかし専修念仏に反感をたぎらせていたのは比叡山延暦寺だけではありませんでした。

次回「興福寺奏状」に続きます。

解説:左大臣光永