親鸞の生涯(一)六角堂夢告

こんにちは。左大臣光永です。

葵祭の有料観覧券を買いました。すでに一列目は売り切れてました。四月のはじめから売り出すということなので、来年はもっと早く買おうと思いました。

本日から7回にわたって「親鸞の生涯」をお届けします。

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浄土真宗の開祖・親鸞聖人。その生涯はあまたの伝説や俗説のベールに包まれ、実態がつかみづらいものでした。また親鸞は生涯多くの著書を残しましたが、自分自身についてはほとんど語っていません。そのことも親鸞の生涯を見えにくくしていました。


大谷本廟 親鸞聖人像

一時は「親鸞は実在しない」という説まで出ました。しかし今日では親鸞は実在した歴史上の人物であることがはっきりわかっています。また、親鸞自筆の書状や関係者の書状から、親鸞の生涯について、かなりのことがわかってきています。

出生

親鸞は平安時代末期の承安3年(1173)京都に生まれました。後に親鸞の師となる法然はこの年41歳。比叡山で修行中でした。

親鸞の伝記『親鸞伝絵(しんらんでんね)』によると、親鸞の家系は藤原氏の一派である日野氏です。父は日野有範(ありのり)。その五代前の先祖には、藤原道長の時代に参議となり、大宰大弐をつとめた、藤原有国がいます。

日野氏は鎌倉時代末期に後醍醐天皇を助け倒幕に力を貸し、室町時代に入ると代々の足利将軍と姻戚関係を結ぶことになります。八代将軍・足利義政に嫁いだ日野富子も日野氏の出身です。

親鸞の生まれた日にちは不明です(4月1日説は後世の付会)。幼名も不明です。母についても不明です。生まれた場所は、日野法界寺のある日野とされています。もっともこれは伝説的な話です。

日野法界寺は永承6年(1051)頃、日野資業(ひの すけなり)が薬師堂を建立したのが始まりとされます。薬師如来が本尊なので「日野薬師」ともいわれます。日野氏の菩提寺として広大な寺域をほこりましたが、応仁の乱やその後の戦乱で焼けました。


日野法界寺


日野法界寺

現在は阿弥陀堂と薬師堂(本堂)のみ残ります。近くの日野誕生院(ひのたんじょういん)には親鸞聖人の「ゑな塚」と「うぶ湯の井戸」があります。


日野誕生院


日野誕生院 ゑな塚


日野誕生院 うぶ湯の井戸

ちなみに日野は鴨長明が晩年に隠棲した場所としても知られます。法界寺の奥の山道を登っていくと、鴨長明の隠居跡という「方丈石」があります。

また日野の南西には藤原氏代々の墓が建てられた木幡(こはた)があり、木幡の南には藤原氏が別業(別荘)を置いた宇治があります。

木幡
木幡

平等院鳳凰堂
宇治 平等院鳳凰堂

日野~木幡~宇治と、藤原氏ゆかりの地が続いていることは注目に値します。

出家

治承5年(1181)春、親鸞は叔父であり養親である日野範綱(のりつな)に付き添われて、三条白川の青蓮院(しょうれんいん)で出家します。9歳でした。


現 青蓮院門跡


現 青蓮院門跡

伝説的な話ですが、慈円が「もう夜なので得度は明日にしよう」というと幼き親鸞は、

明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは

と答えたといいます。

この前年には信濃で木曽義仲が、伊豆で源頼朝が挙兵し、源平の合戦が始まっています。

出家の師を努めた慈円(じえん)は、平安末期に摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)をつとめた藤原忠通(ただみち)の息子です。慈円の兄には近衛家を起こした基実(もとざね)、九条家を起こした兼実(かねざね)がいます。

慈円は後に大僧正に任じられ、天台座主を四度つとめることになります。歴史書『愚管抄』の作者としても有名です。また歌人としても名高く、小倉百人一首95番に歌を採られています。

親鸞が出家した場所・青蓮院は、比叡山延暦寺の里坊です。里坊とは比叡山の僧が平安京の貴族や朝廷に招かれて法会に行くのは大変なので、比叡山のふもとに建てた天台宗寺院のことです。いわば比叡山延暦寺の出張所です。

青蓮院は現在、粟田口(あわたぐち)にありますが、親鸞が出家した時は三条白川にありました。その後、慈円が祇園の東・吉水(よしみず)に移し、慈円の没後、今の粟田口に移されました。

親鸞がわずか9歳で出家した理由はなにか?

よくわかりません。

(通常、出家の年齢は13歳~18歳)

親鸞の父日野有範は貧しく、親鸞はじめ息子たちを育てることができませんでした。それで親鸞は父のもとを離れて叔父の日野範綱に養われていました。そういう立場ですので、世俗での出世が期待できなかったため…という説。

以仁王の平家一門に対する決起が失敗したため、以仁王に縁の深い日野氏も権勢が衰えたという説。

平家一門による東大寺・興福寺焼き討ちや平清盛による強引な福原京遷都を見て、世の無常を感じたという説。

祖父の日野経尹(ひの つねまさ)が素行の悪い人物であったため、孫の親鸞も出世できそうになかったためという説。

などいろいろな説ありますが、わかりません。

延暦寺の親鸞

9歳で出家した親鸞は、建仁元年(1201)29歳までの20年間を延暦寺で過ごします。


現 比叡山延暦寺 横川中堂

20年の間、親鸞が延暦寺でどのような修行・学問をしていたのか?

これもよくわかりません。

横川の常行三昧堂(さんまいどう)で不断念仏の行を行っていたことは間違いないといわれています。比叡山延暦寺は東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3つのエリアに分かれ、中でも横川はもっとも山奥にあります。本格的に俗世との縁をたって修行したい僧が集まる場所でした。その横川にある常行三昧堂で親鸞は不断念仏を行っていたというのです。

不断念仏とは3ヶ月と7日にわたって堂内の仏像のまわりを歩き回り、ひたすら阿弥陀如来の名を唱える(念仏する)というものです。この不断念仏を達成すると「三昧(さんまい)」の境地に入ります。三昧…つまり、精神が研ぎ澄まされ、集中し、乱されない状態のことです。そしてこの「三昧」に入ることで真理を悟ることに至るわけです。

しかし、若い親鸞は「三昧」どころではありませんでした。

非常に苦しめられた問題があります。

性欲です。

「どうして俺はこう、むらむらっとしちゃうんだろうな。まじめに修行しないといけないのに…」

比叡山に女子はいないですが、都の貴族から招かれて念仏しに行くことも多かったでしょう。そこで綺麗なお姫さまなんか見ると、やはりこう、むらむら~ッときちゃうわけです。

当時、僧侶でも妻を持つことは一般的でした。しかし仏教者としてそれはどうなのか?戒律を犯しているのではないか?

一生独り身を貫くことが本来の仏教者のあり方ではないか?

でも自分にそれができるのか?

親鸞はかなり思いつめていたようです。

六角堂夢告

建仁元年(1201)、29歳の親鸞は比叡山を下ります。京都の六角堂に百日間参籠して、後世のことを祈願しました。すると95日目の4月5日明け方。


六角堂


六角堂


六角堂

「善信、善信よ…」

「はっ…!あなたさまは」

「私は、救世(ぐぜ)観音菩薩…」

「なんと!」

「そしてその正体は、聖徳太子」

「おお!」

そして救世観音の姿をとった聖徳太子は、親鸞に偈(げ)を示しました。偈とは仏の教えをのべたり、仏の徳をたたえた四句からなる韻文(詩)のことです。

行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽

行者宿報(ぎょうじゃしゅくほう)にて設(たと)い女犯(にょぼん)をすとも
我 玉女(ぎょくじょ)の身と成りて犯されん
一生之間 能(よ)く荘厳(しょうごん)して
臨終(りんじゅう)に引導(いんどう)して極楽に生せしむ

『親鸞伝絵(しんらんでんね)』より

「これが我が請願である。行って人々に述べ伝えよ」

…という夢を見ました。

行者宿報(ぎょうじゃしゅくほう)にて設(たと)い女犯をすとも
我 玉女(ぎょくじょ)の身と成りて犯されん
一生之間 能(よ)く荘厳(しょうごん)して
臨終(りんじゅう)に引導(いんどう)して極楽に生せしむ

「たとえ修行者が前世の因縁によって女性と交わることがあっても、私が玉のような女性となって犯されよう。一生の間、その人を清らかに保ち、死ぬ時は極楽往生に導こう」

あれほど親鸞が悩んでいた性欲の問題に、聖徳太子の偈はハッキリと答えを示していました。

仏教者でも、妻を持って、よいのだと!

親鸞は夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町。円山公園一帯)の法然のもとに行きます。以後、百日間、親鸞は雨の日も風の日も、何事が起こっても法然のもとに通い、法然より専修念仏の教えを受けました。

次回「親鸞の生涯(ニ)吉水時代」に続きます。お楽しみに。

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4/28(日)17時~京都駅八条口徒歩10分。長福寺にて。最終回。小倉百人一首の歌を会場のみなさまとご一緒に読み、解説していきます。86番西行法師~

解説:左大臣光永