武田信玄と上杉謙信(十) 駿河攻略

遠州忩劇

永禄7年(1564)月、引馬城主・飯尾連龍(いのお つらたつ)が今川に反乱をおこし、遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれる混乱状態に陥りました。武田信玄はこの状況を注意深く見守りました。

今川氏真は、この事態を収拾できるのか?もしできなければ、これ以上今川と組んでいてもいいことはない。駿府に攻め込むとまで言い始めました。代わって織田信長との同盟を模索し始めました。結局、今川氏真は遠州忩劇を鎮圧したのですが、信玄はもう今川氏真の人物を見限っていました。

信玄・義信父子の対立

永禄8年(1565)から、織田・武田間で同盟に向けての交渉が行われます。その一環として、同年11月、織田信長の養女が、諏訪四郎勝頼に嫁ぐことになりました。着実に、親織田・反今川の体制が整えられていきます。

しかし信玄嫡男の義信は信長との同盟に反対でした。義信は今川義元の娘・嶺松院殿を妻としていました。義信にとって、信長は桶狭間で舅今川義元をほろぼした敵です。同盟など考えられないことでした。

かなり早い段階から、義信は武田家の今川への待遇が悪いことに不満をあらわし、信玄・義信の父子関係は、悪くなっていたようです。それに加えて信長との同盟案が持ち上がり、対立は決定的となります。

義信は父信玄へのクーデターを画策していました。時期は永禄8年(1565)10月。その翌月には織田信長の養女が勝頼に嫁ぐことになっていました。この政略結婚が実現すれば、武田家は一気に親信長・反今川となる。

「なんとしても、食い止めねば」

義信は同志と語らい、永禄8年(1565)7月15日、灯籠見物と称して飯富虎昌の屋敷を訪ねました。信玄の手の者がこれに気づき、信玄に通報しました。

「なに義信が!」
「よからぬ企みを練っているものと思われます」

その時、障子の陰には飯富虎昌の弟・飯富昌景(後の山県昌景)が信玄の刀を持って控えていました。飯富昌景は報告をきくと、信玄に申し上げます。

「7月の頭より兄のもとに、義信さまの書状がたびたび届けられていました」

そう言って、書状をすべて見せました。これは飯富虎昌にとっては兄を密告する行為でした。そこまでして武田に尽くすのか。武田信玄は飯富昌景の忠義に涙します。

永禄8年10月15日、飯富虎昌は切腹を命じられました。義信の計画に加担した二人も処刑されました。義信の家臣はことごとく追放となりました。

兄と義信を密告した飯富昌景は、その後、武田氏宿老である山県氏の家督を継ぎ、山県昌景と名乗ります。

義信は甲府東光寺に幽閉となりました。

勝頼の結婚

兄義信の幽閉、という予想外の事件が起こったものの、信長養女の勝頼への輿入れは当初の話通り進められました。

永禄8年(1565)11月13日、信長養女は高遠城に輿入れしました。法名を龍勝寺殿といいます。

翌12月、近江に亡命中の足利義昭から、上洛を促す書状が届きました。武田信玄よ。信長と同盟したのだろう。ならば二人でも、どちらか一人でもいいから上洛して、余を助けよというわけです。

義信の死

永禄8年から9年にかけて、信玄は義信との和解をはかりました。信玄が親しくしている甲斐国の禅僧たちが東光寺におもむき、父信玄の真意をつたえました。また、さまざまな人が追放された義信家臣のためにとりなしを行いました。

しかし、そんな活動もむなしく、永禄10年(1567)10月19日、義信は東光寺で亡くなりました。30歳でした。自害したとされますが、病死という説もあります。義信の守役とされる飯富虎昌の三回忌の4日後のことでした。

東光寺は25年前、武田信玄が妹婿の諏訪頼重を死に至らしめた場所です。そこでまた、今度は実の息子義信を死に至らしめたのです。

東光寺には武田信玄という人物のドロドロした闇の部分が渦巻いているような気がします。

勝頼嫡男の誕生

一方で、嬉しい出来事もありました。

翌11月はじめ、勝頼夫人(龍勝寺殿)が子を出産したのです。幼名武王丸。後に太郎信勝と名乗ります。

今川氏との関係悪化

駿府では、今川氏真が恐怖におののいていました。

「武田信玄。恐るべき男。実の息子まで死に追いやるとは…。もう武田は信用できない」

今川氏真は武田への牽制として、上杉謙信に接近し、今川・上杉間で密約が成立します。

その後も武田氏と今川氏の関係は悪化する一方でした。

信玄、駿河に侵攻

永禄11年(1568)11月6日、武田信玄は甲相駿三国同盟を破り、今川領に侵攻。今川氏真は駿府を出て、掛川に落ち延びました。この時氏真の奥方は乗り物もなく、裸足で逃げるという屈辱を味わわされました。

北条氏康・氏政父子にとっても、寝耳に水でした。甲斐・駿河・相模三国は長く同盟関係を維持してきました。またつい先年、北条父子は今川氏真の妹・嶺松院殿が駿府に帰還できるよう、武田と今川の仲介人をつとめたことでもありました。そうした同盟関係を、信玄は一方的に破棄したのでした。

「今川は上杉と結び、武田を滅ぼそうと企んだ」というのが、信玄の掲げた名目でした。しかし今川方としては認められません。

「約定を一方的に破るなんて、ひどい。武田信玄はけしからんヤツだ!」

今川氏真はそう言って、甲相駿三国同盟のもう一つの「点」である北条氏康に連絡を取ります。

北条氏康は後北条氏三代。初代北条早雲の孫にあたり、比類なき豪の者でした。生涯戦いに勝つこと36回。全身に七つの傷を受け、特に顔面に受けた二つの傷は、氏康疵(うじやすきず)と呼ばれていました。連絡されて北条氏康は、

「なに、武田が?それはけしからん」

嫡男の氏政(うじまさ)に軍勢を授け、今川氏真救援に向かわせます。

越相同盟

北条氏政はただちに駿河に出陣。薩タ峠に陣をしきます。信玄は駿河国内に孤立し、補給線を絶たれた形となりました。

なんとか間道を通って甲斐に逃げ延びますが、その後も北条父子は手をゆるめませんでした。

これまで敵対していた上杉謙信と接近をはかり、同盟をもちかけます。上杉謙信はこの申し出を受け、永禄12年(1569)6月、越相同盟が成立します。

小田原城包囲

態勢を整えた武田信玄は、軍勢を率いて今度は北条氏康を攻めます。北条の城を次々と落とし、永禄12年(1569)10月1日、小田原城を包囲しました。

前の永禄4年に上杉謙信に包囲された時の例でわかるように、小田原城は難攻不落の天下の名城です。しかも北条氏康は長期戦の構えで小田原城にこもります。

「まずいな。戦が長引く」

そう悟った武田信玄は、すぐさま小田原城の包囲を解き、相模川沿いにいったん甲斐に引き返そうとしますが、

三増峠の戦い

永禄12年(1569)10月8日、三増(みませ)峠のあたりで、突如、北条の伏兵20000が武田勢に襲い掛かります。

「やはり北条氏康、こう来たか」

信玄は、北条の奇襲を読んでいました。先遣隊5000を少し先に進ませていましたが、この先遣隊に知らせを出すと、すぐに先遣隊は引き返してきて、北条軍の側面から襲い掛かります。

わあーーーーーっ
わあーーーーーーーっ

奇襲に対して奇襲をかけられ、北条軍は武田軍によって、あそこ、ここに打破られました。

「ふん…小田原城は落とせなかったが、一矢報いた形にはなろう」

こうして武田軍は多くの被害を出しつつも、甲府に帰還しました。

三度駿河へ

さらに、休む間もなく信玄は軍勢を率いて三度駿河に侵攻し、蒲原城(かんばらじょう)を落とし、駿河全域を手中に収めます。

解説:左大臣光永