武田信玄と上杉謙信(二) 父を追放

初陣 海ノ口の戦い

天文5年(1536)11月、武田信虎は8千の騎馬隊を率いて信濃に侵攻。海ノ口城を攻めました。

海ノ口城攻略
海ノ口城攻略

この戦で若き武田晴信も初陣を飾りました。若武者のさっそうたる姿に、武田家臣団も

「おお…」

士気上がることいちじるしいものがありました。

守役の板垣信方は、

「若殿、立派になられた…」

涙が込み上げたことでしょう。

敵方海ノ口城には、猛将平賀源心(ひらがげんしん)がたてこもって抵抗していました。

「武田のこわっぱめ!蹴散らしてくれるわ!」

ワァーーーー

ワァーーーーーー

武田方、必死に攻めますが、何日かかっても海ノ口城を落とせません。その上、雪が降ってきました。

「このまま冬になっては大変です。
ここはいったん退きましょう」

「ううむ。いたし方あるまい」

信虎が撤退を命じようとした、その時、

「それがしに殿(しんがり)をお命じください」

ざあっと武田家臣団諸将が声のしたほうを見ると、

若殿・武田晴信でした。

「殿じゃと?」

父信虎は言います。

「バカを申すな。この雪の中、敵は追撃などして来ぬわ。
殿などしても、何もやることはない。
お前は何を言い出すのか」

「いえ、それがしに殿をつとめさせてください。
必ず、やる事はございます」

「ああ、そんなに言うなら勝手にせよ」

こうして武田晴信に殿をつとめさせることになりました。

信虎の本隊は甲斐に引き上げていき、晴信は300の兵を与えられ、殿をつとめることとなりました。

「バカバカしい…この雪の中、敵が追って来たりするもんか」
「殿なんてやっても、やることは無いよなあ」

兵士たちはぶつぶつ言っていました。

翌朝。

武田晴信は全軍に命じます。

「これより海ノ口城を攻める!」

(ええっ…攻めるって何だ!?俺たちは殿をするために、ここにいるんじゃないのか?)

この少人数で城を攻撃する。

前代未聞のことでした。

しかし、武田晴信は断固としてやるのでした。300の兵を率いて、大雪の中、海ノ口城に攻め上っていきます。

その頃、海ノ口城は宴会の最中でした。武田軍が撤退したということで、油断しきっていました。

「はっはっは、武田も、言うほどはないですなあ」
「まったくです。甲斐の山猿どもに、何ができるものですか」

酒がうまいうまい、何てことを言っていた。その時!

「武田軍が!攻め込んできました!」

「なに!撤退したのではなかったのか!!」

わあーーーーーーーっ

見ると、城の周りに武田の旗が所せましと、たなびいていました。

武田晴信は数を多く見せるために、たくさんの旗を立てたのでした。

「そんなバカな!!」

ヘタヘタと倒れこむ平賀源心。

こうして海ノ口城は落ちました。

躑躅ヶ崎館帰還

「晴信さま、ご帰還ーーーーッ!!」

武田晴信は意気揚々、躑躅ヶ崎館に引き上げてきました。

「なに晴信が!?」

武田信虎は驚きますが、すぐに息子武田晴信を迎えます。

「太郎、殿はどうなったのだ?」

「父上、お喜びください」

武田晴信、スッと入れ物を差し出します。

「ん?なんじゃそれは?」

「敵将・平賀源心の首でございます。ご実検ください」

「なに!?あれだけの数で海ノ口城を落としたというのか?」

周囲はほめそやします。

「さすがはご嫡男」
「やりますなあ」

さあ父も誉めてくださるぞと期待していた武田晴信、しかし

「愚か者が!!…城を落としたなら、なぜ城に留まって戦わぬ!
次郎ならきっとそうしていたであろう。
この臆病者めが」

「はっ、申し訳ございません!!」

晴信、額を床にこすりつけて父信虎に謝ります。

(俺は…何をしたって父には認められないのだ…)

唇を噛みしめる武田晴信、20歳。

佐久攻め

天文9年(1540)5月、武田信虎は8千の騎馬隊を率いて佐久から信濃に侵攻します。これまでも信虎は何度か信濃攻略を試みましたが、なしえていませんでした。

「今回こそ信濃を手におさめる」

どかか、どかか、どかか、どかか!

「一日に三十六城を落とした」とまで言われる勢いで、武田騎馬軍団は次々と城を落としていきます。しかしこの遠征に対して、甲斐国内では恨みの声が多くありました。

「また戦か!」
「この苦しい時期に…ぶつぶつ…」

信虎の圧制

佐久攻めの成功に勢いを得た武田信虎は、翌天文10年(1541)5月、第二次信濃攻略を敢行。佐久を経て小県(ちいさあがた)まで駒を進めました。しかし、打ち続く外征に、甲斐の領民は疲れ切っていました。

小県攻略
小県攻略

「ひもじい」
「苦しい」
「こんな時にまた遠征なんて…」
「食うモノもまともに無いってのよお…」

躑躅ヶ崎館では武田家重臣たちが頭を抱えていました。

「信虎さまはますますガンコになられ、我々の言うことをお聞きにならない。
やはりここは…晴信さまに家督を継いでいただくしか」

武田信虎は智慧の回る次男晴信よりも次男信繁を愛し、家督を継がせようと思っていました。しかし武田家臣団の多くは長男の晴信支持でした。

何とか血を流さずに家督相続ができないものか?

板垣信方はじめ武田家家臣団は晴信に打ち明けます。

「信虎さまの治世はもう限界です。甲斐の領民のため、晴信さまに立ち上がっていただくしかありません」

「信方、それは俺に、父に背けと言っているのか」

「甲斐の領民のためです」

「そのようなことになれば!今度は甲斐の国内で戦となろう。それこそ、民を苦しめることではないのか」

「その点はご安心ください。手はずは整えております…」

父を追放

決行の機会は、案外早く訪れました。信濃小県(いちさあがた)の戦いから武田父子が帰還してすぐの、翌天文10年(1541)年6月14日、武田信虎は娘婿の駿河の今川義元を訪ねて駿府に向かいました。

信虎の娘で、武田晴信の姉にあたる女子が、今川義元に嫁いでいたのです。もう孫も生まれていました。久しぶりに娘夫婦と孫の顔を見るということで、さしもの気性の荒い信虎も、ノホホンと頬がゆるんでいたことでしょう。

帰り道。

駿河と甲斐の境の河内路(かわうちじ)にさしかかった時、

ガシャ、ガシャガシャガシャ

足軽の一団が槍を持って信虎の輿のまわりを固めます。その先頭に立つのは…板垣信方でした。

「信方!これは何の真似じゃ!?」

「お屋形さま、晴信さまのご命令です。これより先は入れるなと」

「なに晴信が?…あやつ…親を追って国を奪うとな。
ふん、それもよい。…駿府に引き返すぞ!」

「お屋形さま…かたじけのうございます!」

おとなしく信虎は駿河に引き揚げていきました。以後、信虎は二度と甲斐の地を踏むことはありませんでした。

しかし追放されたといっても、信虎の駿河における待遇は悪いものではありませんでした。今川義元に対して武田晴信は、くれぐれも父のことを頼むと、お願いしてありました。だから信虎はゆうゆうと隠居生活を楽しむことができました。駿河の空の下で、

「晴信よ、お前の活躍を見ておるぞ。好きなだけやってみろ」

そんなふうに、つぶやいていたかもしれませんね。

「新当主・武田晴信さま、ばんざい!」
「信虎の時代は終わった!」
「自由だ!!」

ワアーーーーーーッ

甲斐の領民は今回の武田信虎追放劇に、おおむね好意的でした。武田家臣団の中にも反対する者はいませんでした。弟の信繁と信廉(のぶかど)も、

「わしは親を追放した。一生かかってもぬぐえぬ汚名を背負ったのだ。
それでもお前たちはわしに、ついてきてくれるのか?」

「兄上の行く所、我々はどこまでも着いていきます」

ガシィ

手に手を取り合う武田三兄弟。

17日、武田晴信は離れ屋敷から躑躅ヶ崎館に入り、正式に武田家第19代当主の座に着きました。

武田信玄
武田信玄像 甲府駅前

解説:左大臣光永