武田信玄と上杉謙信(三) 謙信、登場
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長尾氏
上杉謙信の長尾氏は桓武平氏を自称し、鎌倉幕府の御家人でした。長尾の名は鎌倉の地名です。
三代将軍源実朝が、甥の公暁に鶴岡八幡宮で殺害された時、長尾定景は討手として公暁を追跡し、討ち取りました。
鶴岡八幡宮
しかし長尾氏の鎌倉幕府における地位は低く、有力御家人・三浦氏の家臣を務めていました。その三浦氏が、五代執権北条時頼の時、宝治合戦で北条氏に滅ぼされましたので、主君を失った長尾氏は、越後守護上杉氏を頼り、越後に下りました。
以後、長尾氏は越後上杉氏の下で、守護代として、越後領内の経営にあたってきましたが、謙信の父・長尾為景の時、上杉氏を無力化し、越後の実質的な国主として実権を握りました。
しかし長尾為景の支配をよしとしない勢力も越後に多く、各地で反長尾勢力が一揆を起こし(越後一揆)、越後国内は内乱状態でした。
中にも、越後守護上杉実定(さだざね)の生家である柏崎の上条城を拠点とする上条定憲(じょうじょうさだのり)が反対勢力を集め、長尾為景に抵抗していました。
謙信誕生
そんな中、一人の男の子が産声を上げました。上杉謙信は、後奈良天皇の享禄3年(1530)正月、越後守護代長尾為景の末子として越後春日山城に生まれました。
春日山城
春日山城
母は長尾肥前守顕吉の娘・虎御前。寅年生まれなので幼名を虎千代。14歳の時元服して景虎と名乗りました。
子供時代の長尾景虎
母虎御前は観音信仰に熱心で、幼い虎千代に観音菩薩の優しさを説きましたが、一方で虎千代は戦にも興味津々でした。一間四方もある城の模型を作って、城攻めの遊びをしました。
謙信七歳の時、春日山城下で林泉寺にて、天室光育(てんしつこういく)より学問を授けられます。
天室光育は幼い謙信に禅と文武の道を厳しく説きました。こうして後の上杉謙信の基礎が作られていきました。
父の死
天文5年(1536)8月、父為景は隠居し、長男の晴景に家督をゆずり、その年の12月に亡くなりました。
「うう…父上、父上」
幼い謙信は、鎧甲冑をまとって父為景の葬儀に参列しました。
「ああ…えらい時期に家督を継いでしまったものだ」
嫡男の晴景は家督を継ぐと、あわてます。晴景には武将としての器量がありませんでした。女色におぼれ、いいとこ無しでした。しかもこの頃、先代為景以来の、不平分子が越後各地で反乱を起こしていました。これを治めるのは、年若い晴景には肩の荷の重いことでした。
還俗と初陣
「兄上がお困りだ。いつまでも禅寺でのんびりしているわけにいかない」
天文12年(1543)、14歳の謙信は還俗し、はじめ三条城(三条市)に、ついで栃尾城(栃尾市)に入ります。
三条城→栃尾城
「今度の城主はまだ14歳らしいぞ」
「ひねりつぶしてやる」
若い謙信をあなどり、反対勢力が三条城・栃尾城に攻撃をしかけてきましたが、
「させるか!」
謙信は三条城城代・栃尾城城代と協力して敵の攻撃を防ぎ、見事、初陣を勝利で飾りました。
家督相続
「今度の栃尾城主は若いけどかなりの器量だ」
「今の当主よりもずっといいじゃないか」
「ああ、あれは女好きでナヨナヨして、話にならん」
こうして若い謙信の人気が高まり、謙信に守護代長尾家の家督を継がせようと画策する者たちが出てきました。一方の長尾晴景のほうにも支持する者がいて、長尾家は謙信派と晴景派。まっぷたつに割れます。
「これはいかん。戦になってしまう」
そう考えたのは越後守護・上杉定実(さだざね)です。
「お前たち、ケンカせず、仲よくやるのだぞ」
こうして上杉定実の仲介により、謙信は晴景の養子となり、越後長尾家の家督を継ぐことなりました。一滴も血を流さずに、晴景から謙信へ家督の譲渡が行われたのでした。
天文17年(1548)、上杉謙信は栃尾城から春日山城に入ります。晴景と父子の契りを交わし、正式に越後守護代長尾氏の家督を継ぎました。
「為景、これからはお前が当主だ。しっかりやれよ」
「はい兄上…ではなく、父上。ですねこれからは」
時に謙信19歳。以後49歳で亡くなるまで30年間を、ここ春日山城を拠点として活動することになります。
春日山城
次回「武田信玄と上杉謙信(四) 諏訪攻略」に続きます。