武田信玄と上杉謙信(一) 信玄、登場
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武田氏の出自
永正16年(1519)武田信虎は、国内の反対勢力をほぼ平定すると、川田館(笛吹市石和町)から躑躅ヶ崎館へ拠点を移します。以後、躑躅ヶ崎館は三代勝頼が韮崎に移るまで、武田三代63年間の居館となります。その一部は現在、武田神社となっています。また躑躅ヶ崎館の土塁や石壁、堀の跡も残っています。
躑躅ヶ崎館跡 武田神社
武田信玄、誕生
大永元年(1521)。
武田信虎は、福島兵庫(くしま ひょうご)の率いる今川勢と交戦中でした。
「また戦になるのですか」
「大丈夫だ。今川の犬など、蹴散らしてくれるわ」
武田信虎は、今川勢との戦に際し、懐妊中の大井夫人を、躑躅ヶ崎館北東にある要害山に避難させました。
その後、信虎は今川勢に勝利し、本国甲府に帰還します。
合戦後の大永元年(1521)11月3日、信虎は大井夫人より喜びの知らせを聞くこととなります。
「あなた、立派な男の子ですよ」
「でかした!何よりの凱旋祝いじゃ」
武田信玄。父は武田信虎。母は大井夫人。幼名太郎。
男子の誕生に力を得たのか、武田信虎はがぜん張り切り、今川勢を上条河原の合戦に破ります。翌大永2年(1522)正月、今川勢を降伏させ、駿河に追いました。以後、今川勢は二度と甲斐に侵攻してきませんでした。大勝利です!
岐秀元伯の教育
母の大井夫人は、太郎の教育に熱心でした。
「この子は賢い。才能を伸ばしてあげないと」
そこで大井夫人は、尾張から禅僧の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を呼び寄せ、太郎の教育にあたらせます。岐秀元伯は、躑躅ヶ崎館南西約15キロの長禅寺(南アルプス市)の住持となりました。躑躅ヶ崎館から遠いのですが、太郎は足しげく通い、岐秀元伯の教えを乞いました。岐秀元伯は太郎に書物を貸し出し、学ばせます。
「若殿、いかがでした『庭訓往来(ていきんおうらい)』は」
「うーん…通りいっぺんの内容で、あまり得るところは無かった」
「言いますなあ。では若殿は、何が知りたいですか」
「軍略について知りたい」
「ほう軍略。それはなぜ?」
「今は戦の世です。戦に勝って、強くなるためです」
「そうですか。ならば『孫子』を読むとよい」
「『孫子』…?ですか」
『孫子』に記してあった教えは、太郎には衝撃的でした。
「戦わずして勝つ」
「勝敗は戦の始まる前に決まっている」
……
「そうか。戦って敵を撃破するのは下の下。
むしろ敵が自然に滅びるように持っていくのが、軍略なのだ!」
幼い太郎は兵法書から学んでいきました。太郎は学問の楽しさに取りつかれ、読書が何よりの楽しみになっていきました。
板垣信方の教育
その一方で、太郎の剣術の腕はイマイチでした。
武田信虎の下、武田家臣団のナンバー2であった板垣信方が、太郎の教育係を務め、主に剣術指南に当たりました。
「さあ、若殿。打ち込んで来られよ」
「でやーーっ」
パン、パン、パン
「わわああーーっ」
バシィィッ
「まだまだ!!」
躑躅ヶ崎館の庭で、激しい剣術の指南が行われました。
太郎と次郎
「太郎、喜んで。あなた弟ができたのよ」
「はい、母上…うわあ、くしゃくしゃだ」
「あなたもそうだったのよ」
大永5年(1525)、太郎5歳の時、弟が生まれます。幼名次郎。後の武田信繁(のぶしげ)です。年が長じるにつれて、次郎は太郎と同じく、学問にも武術にも、すぐれた少年に成長していきます。太郎と次郎はとても仲がよく、供に剣術の修行をしたり学問に精を出しました。
後に生まれた三男の信廉(のぶかど)と共に、信繁は兄信玄にその生涯を捧げることとなります。
父の思惑
板垣信方が、武田信虎に言います。
「御屋形さま、お喜びください。太郎さまも次郎さまも、元気に成長しております」
「うん。それはよいのだがな…」
「何か?」
「いや…太郎は理屈が過ぎる。頭でっかちで、ワシも時々やりこめられる」
「ははは。それも利口の証ですよ」
「何が利口か!戦国武将に、そのような小賢さはいらぬ!
ひたすら武をもって、敵を攻め滅ぼす。
それぐらいの気概が無くてはいかん」
「はあ…そんなものでしょうか」
次第に父信虎は、太郎を嫌い、次郎を取り立てるようになっていきます。
諏訪氏に撃退される
太郎・次郎がすくすくと成長していく中、甲斐を取り巻く状況も変化していました。大栄6年(1526)、甲斐武田氏と長年敵対関係にあった今川氏親(いまがわ うじちか)が亡くなり、若い今川氏輝(いまがわ うじてる)が家督を継ぎました。信虎はすぐさま今川氏輝と和睦を結び、駿河今川家の脅威を取り除くと、信濃に目を向けます。
甲斐は四方を山に囲まれ、土地はやせ、資源の少ない国です。この心細い甲斐の国を強くするには、外に攻めて出るほかありませんでした。駿河今川家の脅威が取り払われて、信虎が目指すのは信濃でした。
信濃の国土は甲斐の三倍。豊かな資源にめぐまれた肥沃な大地です。また好都合なことに、信濃全土を統治するような大大名はなく、多くの小勢力が分散していました。
信濃を手に入れれば甲斐は安泰。
武田信虎は信濃攻略の下準備を着々と進めていきました。
享禄元年(1528)8月、武田信虎は諏訪を経由して信濃に攻め込もうとしますが、諏訪大社の神官をつとめる諏訪氏によって撃退されます。以後、諏訪氏との戦いは長期化し甲斐の領民は疲弊します。
「こんなにまでして信濃遠征をする意味があるのか」
「まったく信虎さまは、民のことを考えてない」
信虎に不満が集中しました。信濃攻略は思いのほかに手こずり、その間、甲斐国内で内乱が起きたりしました。
「くっ…仕方がない」
信虎は信濃攻略を断念せざるを得ませんでした。天文4年(1535)9月、信虎は諏訪氏と和睦を結びます。
元服
天文5年(1536)正月、太郎は元服し、従五位下に叙せられ、12代将軍足利義晴より一字偏諱をいただき、晴信と名乗りました。華々しい元服でした。
すぐに京都から甲斐に勅使が下り、武田晴信に従五位下・左京大夫の位が授けられました。
三条夫人との結婚
元服直後、晴信は京都の三条家から妻を迎えます。三条夫人です。
(ここが甲斐の国!まあなんと寂しそうなところ…)
華やかな都からはるばる甲斐に下ってきた三条夫人は絶句したことでしょうね。
「このような甲斐の山中で、さぞかし不便に思われるでしょうが…」
「いえ、そんな、殿、頭をお上げになってください」
貴族の娘が武家に嫁に来る。
本来、考えられないことですが、応仁の乱以降、京都の皇族も貴族も、すっかり権威が失われて、貧乏でした。各地の守護大名に頼る者も多くありました。それでいて、実家は藤原よ、というプライドだけはありますからね。
武田信玄にとってこの三条夫人。後々扱いにくい存在になっていきます。
(以前、武田晴信は扇谷上杉氏の娘を嫁に迎えたことがありますが、難産で母子ともども亡くなりました)
天文7年(1538)三条夫人との間にはじめての男子が生まれます。後の武田義信(たけだ よしのぶ)です。このほか武田晴信と三条夫人の間には三男二女をもうけることとなります。
次回「武田信玄と上杉謙信(二) 父を追放」に続きます。