蓮如(六) 蓮如の晩年とその後の本願寺
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河内出口
蓮如が越前吉崎を去って河内出口に入ったのが文明7年(1475)8月月下旬。
この出口という土地には蓮如の父・七代存如の代から側近として仕えた本遇寺賢秀(ほんぐうじ けんしゅう)がいたので、その縁を頼っての移住でした。すぐに蓮如は出口の地に一宇の坊社を建て、畿内での伝道に精力的に取り組みます。
「しかし困ったものだ…」
蓮如は頭を抱えます。浄土真宗の門徒を名乗りながら、ただ人の説法を聞き覚えた程度の者や、他宗派の用語を不用意に取り入れている者、勝手な解釈をしている者が多かったのです。
ようは勉強不足のまま、知ったかぶりで人に教えているということです。また、浄土真宗こそ最善の教えの立場から他の宗派をバカにしたり攻撃したりする者がいました。そういうことはよくないと、熱心に蓮如は説いて回りました。
山科本願寺の建立
文明9年(1477)11年間にわたって戦われた応仁の乱がようやく終結しました。東軍・西軍双方にとって得るもののない、不毛な争いでした。京都はすっかり焼け野が原となりました。
翌年の文明10年(1478)蓮如は河内出口を離れ、山科に入ります。数年のうちに各地から材木を取り寄せて坊社を建立、また大津三井寺の浜松御坊に安置されていた親鸞聖人の絵像を遷し、御影堂(ごえいどう)にお迎えします。こうして本願寺派の本山となる、山科本願寺が出来ていきました。
完成間際には、前将軍足利義尚の母である日野富子が山科本願寺に参詣しました。
「このこと前代未聞。ありがたき限り」
そんなふうに、蓮如は日野富子の山科本願寺参詣について語っています。
また同じ頃、後土御門天皇より本願寺建立祝いとして祝い品が届けられました。このようなことがあり、本願寺はいよいよ勢い盛んになっていきます。畿内一円に蓮如に帰依し本願寺門徒となる者が増えていきました。
隠居
延徳元年(1489)蓮如は五男の実如に本願寺住持を譲ります。
「と、とんでもございません父上、私などとても」
実如は再三辞退しましたが、
「これほど求められても断るのは俗世の話としては親不孝。
仏法の世界でいえば師匠に背くことだぞ」
「しかし、私は無学です。門徒に教えを垂れるなど、できません」
「無学であることは問題ではない。なんなら私の書いた文に
そのまま判を押して下せばよい」
「ぐぬう…そこまでおっしゃるなら」
こうして、実如はようやく本願寺住持を受けました。
「功なり名遂げて、身しりぞくは天の道である」
大坂へ
隠居後の蓮如は摂津国大坂に移り、この地に坊社を建てます。「後の事は若い者たちに託すとしよう」そんな感じだったでしょうね。
死去
明応7年(1498)夏、蓮如は病を得ます。
「往生は近い」
おのが死期を悟った蓮如は門徒を連れて上洛し、山科本願寺の御影堂に入り、親鸞聖人像と向かい合います。
「今生の世にてはこれで最期のようです。
やがて聖人と再会がかないますことが、
うれしゅうございます」
そんなふうに挨拶した後、蓮如は息を引き取りました。明応7年(1499)3月25日。享年85。
その後の本願寺
蓮如の死後、本願寺はおおいに勢いをのばし、日本を代表する大教団に成長しました。しかし山科本願寺は享禄5年(1532)、日蓮衆徒と近江の六角定頼の連合軍に焼き討ちにされ、蓮如晩年の隠居場所であった大坂石山の坊舎が、新しい本願寺の本山となりました。
石山本願寺です。
元亀元年(1570)全国制覇を目指す織田信長が石山本願寺に大坂からの撤去を命じたことにより本願寺は織田信長と対立。以後、「石山合戦」という10年間にわたる戦いが続きます。戦争も末期になってくると本願寺にも疲れが出てきて、信長を講和しようという顕如を中心とする穏健派と、あくまで戦おうという教如を中心とする抗戦派に分かれました。
結局は穏健派が勝ち、天正8年(1580)石山本願寺は信長に明け渡されました。
秀吉に時代に入ると、秀吉から大坂の天満(てんま)に、ついで京都に領土を下され、本願寺は復活を果たすも、家康の時代に入って前の穏健派・抗戦派の対立を引きずる形で西本願寺と、東本願寺に分裂し、今に至ります。
次回「北条早雲(一)伊勢新九郎」に続きます。