北条早雲(一) 伊勢新九郎

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一代で伊豆・相模二国を手に入れ、戦国時代を幕開けさせた下克上のさきがけとも言われる北条早雲。しかし、その生涯については多くが謎に包まれており、長らく不明とされていました。

ところが近年、研究が進み、北条早雲の謎に包まれていた生涯について、かなり詳しいところまでわかってきました。

今日から四回にわたってお届けします。

小田原 北条早雲像
小田原 北条早雲像

北条早雲 その出自

北条早雲こと伊勢宗瑞の出自については、かつていくつか説がありました。その中でも、伊勢の素浪人説が有力でした。どこの馬の骨とも知れない一介の素浪人が、腕っぷし一本で成りあがっていく…そのストーリーは痛快ですが、現在では完全に否定されています。
近年、備中の伊勢盛定の次男・伊勢新九郎盛時であるという説が有力です。

通説では永享4年(1432)生まれ享年八十八と言われますが、おおざっぱな数字で信用できません。実際の享年はもっと若く、生まれた年ももっと遅かったであろうと思われます。

いずれにしても正確な生まれた年も享年も「わからない」ということです。

ちなみに北条早雲といいますが、本人が北条を名乗ったことは一度もなく、北条を名乗るのは二代氏綱からです。

伊勢新九郎盛時の父・伊勢盛定は備中国荏原(えばら)郷(岡山県井原市)を領有する伊勢氏の傍流で、伊勢総本家の伊勢貞国の娘を妻としていました。

伊勢氏 系図
伊勢氏 系図

傍流とはいえ本宗家から妻を迎えていたということで伊勢本宗家とのつながりが強く伊勢氏の中で役割が大きかったと思われます。その守定の息子・盛時が後の伊勢宗瑞、北条早雲です。

では備中の伊勢家とは何かというと、そのはじまりは、室町幕府を開いた初代足利尊氏の側近・伊勢貞継・伊勢盛経にさかのぼります。その五代目の子孫が盛定で、その次男が盛時。すなわち伊勢宗瑞こと北条早雲です。

伊勢本家は代々幕府の政所職についた名門です。したがって、かつてあったような、北条早雲は素浪人から腕一本で成りあがった、というイメージは完全に否定されます。

だいたいですね、伊勢宗瑞の姉の北河殿は、今川家に嫁いでいます。名門の出でなれれば名門の今川家に嫁げるわけはないんですよ。

ここからも、北条早雲が一介の素浪人から身を起こしたということが単なるファンタジーだとわかります。

今川家の家督争いに介入

応仁年間(1467-69)に、伊勢宗瑞は伊勢に下り、将軍足利義政の弟足利義視に仕えました。その後、尾張に移り、義兄の今川義忠の縁で駿河に下ります。義兄というのは、伊勢宗瑞の姉(もしくは妹)北河殿が今川義忠に嫁いでいたので盛時から見て今川義忠は義兄にあたります。

文明8年(1476)2月、今川義忠が遠江国塩買坂(しおかいざか)で42歳で討ち死にします。義忠が死んだ時、義忠の嫡子龍王丸(たつおうまる)はわずか6歳でした。

今川家は家督相続で大いにもめます。

「六歳の当主では心もとない」

そこで、家臣の間では今川氏庶子の小鹿範満(おじかのりみつ)を当主にしようという動きがおこります。しかし一方で、

「分家などとんでもない。やはり今川本家の龍王丸に継がせるのだ」

という動きもあり、今川家は龍王丸派と小鹿範満派、まっぷたつに割れました。さらに、龍王丸派と小鹿範満派の争いは今川家内部だけにとどまりませんでした。

伊豆の堀越公方・足利政知が龍王丸を支持し、武蔵の扇谷(おおぎがやつ)上杉定正は小鹿範満を支持し、どちらもあわよくば今川家を乗っ取ろうという構えでした。

今川氏の内紛
今川氏の内紛

今川家のピンチ。そこで、伊勢宗瑞が出てきました。

「ワシが仕切る」

そんな感じで調停に乗り出します。龍王丸が成人するまでは小鹿範満が名代となり家督を代行する。しかし龍王丸が成人したあかつきには家督を譲り渡す。

「それでよろしいな!」

「うむ…まあ、それなら」
「納得です」

こうして今川家の家督相続問題は、伊勢宗瑞の介入によっていったんはおさまりました。

室町幕府の申次衆となる

その後、伊勢宗瑞は京都に上り、将軍足利義尚の申次衆となりました。申次衆とは大名たちが将軍に拝謁する際に、その取次をする役職です。

また一方で伊勢宗瑞は、京都滞在中、建仁寺で禅を学びました。後には洛北紫野の大徳寺に学びました。

伊勢宗瑞(北条早雲)その人物

伊勢宗瑞はどんな人物だったか?

まず倹約を旨とした、ということが言われます。

「伊豆の早雲は針のような小さなものでも、蔵に積み上げるほどに貯蓄した。しかしその一方で、ひとたび戦となれば玉のような貴重なものでも、平気で砕くことができる。そういう男であった」

こんな評価が伝わっています。

また伊勢宗瑞の嫡男・二代氏綱がその息子三代氏康に与えた家訓にも、伊勢宗瑞が倹約家であったことが述べられています。

「亡き父早雲が、小身の身から大物になれたことは、単に天運があったからではない。倹約を重んじて派手を好まなかったからだ。武士たるものは古風なのがよく、今風に派手を好むのは軽薄というものだと、常々父はおっしゃっていた」

と家訓の中で語っています。

『早雲寺殿廿一箇条』

また伊勢宗瑞が作った家訓とされる『早雲寺殿廿一箇条』の中に、

「水はいくらでもあると思って、うがいしてムダに捨ててはならない」

そんなことが書いてあります。それくらい、倹約に心がけた武将だったということです。経済に関心が深くありました。

この『早雲寺殿廿一箇条』は江戸時代に創作されたもので、したがって伊勢宗瑞が書いたものではない、とも言われますが、後世の人が伊勢宗瑞=北条早雲をどういうイメージで見ていたか、ということが読み取れます。

第一に仏神を崇めよ。

神仏ではなく仏神といったのは、伊勢宗瑞、禅宗ですからね。建仁寺・大徳寺で禅を学んでいたことが関係しているでしょう。

そして、朝は寅の刻(午前3-5時)頃までに起きて行水をして仏神を礼拝し、心身をととのえてからその日の仕事を始めよと。

また正直で礼節を守ってありのままでいれば、祈らずとも仏神は守ってくださる。逆に、祈っていたからといって、行いが正直でなければ守ってくださらないと。

菅原道真公の歌として

心だにまことの道にかなひなば
祈らずとても神や守らむ

という歌がありますが、まさにその精神を、伊勢宗瑞行っていたようです。

第十四条は特に有名です。上下万民に対し、一言半句も嘘を言ってはならない。ありのままであるべきである。嘘を言い作ればクセになって、人に見限られる。嘘言わずに正直にやれ、ということです。

また学問にも大変に熱心でした。

「少しの暇があれば本を読んで文字のあるものを懐に入れて、常に人目をしのんで読むべきだ。寝ても覚めても手放さないでいなければ文字を忘れてしまう。書くことも同じだ」

また歌のたしなみ、歌道についても言っています。

「歌道をたしなまない人は無能で、いやしいことである。学べ。そうすると普段の言葉遣いにも慎みが出てくるのだ。一言であっても人の胸の内を知られることになるのである」

もちろん武芸についても、奉公の合間には馬を乗り習うべきだとか、文武弓馬の道は常である。記すに及ばずということです。

『北条五代記』には伊勢宗瑞の人物像が書かれています。

仁義をもっぱらとし、一豆(とう)の食をえても、衆と共にわけて食し、一樽(そん)の酒を請(うけ)ても、ながれにそゝぎて、士とひとしく飲するがごとし。よるは夜もすがらねぶりを忘れて、をこなひに心をかたむけ、昼はひねもす、面(おもて)をやわらげて、まじはりをむつまじくす。すゝみて万人をなでん事をはかり、退きては一身の失(しつ)あらん事をはづ。たのしみは諸侯の後にたのしび、うれいは万人の先にうれふ。いまだ須臾(しゅゆ)の間も、心はほしいまゝにせず、常に慈悲の政道をとりをこなひ、天道の加護をあふぎ、民をなで道をたゞしくまします故、神明のまもり天道に叶ひ、敵をほろぼし国したがふ事、あたかも吹(ふく)風の草をなびかすがごとく、万民を憐み給ふ事、ふる雨の国土をうるほすに同じ。

特に現代語訳はいらないと思います。とにかく大絶賛されている。素晴らしい人であったと。美化もされていると思いますが、こういう傾向はあったのでしょう。

愛読書は『太平記』と『吾妻鏡』でした。特に『太平記』はたいへんな熱の入れようだったようです。

『太平記』の諸本を集めて足利学校に送り、学生たちにこれを検証させ、さらに京都にこれを送って家臣に朱点(本文の横に書いてある読み方を記す記号)について尋ねたということです。

「ううむ楠正成公はこう戦ったのか。これは参考になる」

なんてことも言ってたんでしょうかね。

次回「北条早雲(二)伊豆侵攻」に続きます。

解説:左大臣光永