蓮如(二) 親鸞に帰れ
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長禄・寛正の大飢饉
蓮如が本願寺の8代住持となった長禄元年(1457)は、大変な年でした。
これより三年間、「長禄・寛正(かんしょう)の大飢饉」と呼ばれる記録的な飢饉が襲います。
鴨川が餓死者の死体でせき止められ、悪臭が洛中に満ち満ちました。京都では二か月で8万2千人もの餓死者が出たと記録されています。
干ばつ、
イナゴの大群。
飢饉は京都から瀬戸内海沿岸、日本海側にまで及びました。ああ…飯…飯…もうダメだあ…ばたっ。いたる所に餓死者の死体が転がりました。
飢饉は三年間に及びました。
浄土真宗の改革
八代住持となった蓮如がまず考えたのは、
「親鸞聖人の教えに帰れ」
でした。この頃の本願寺は、親鸞の教えから離れた所も多くありました。天台宗の風俗を真似してみたり、本来の浄土真宗の趣旨から離れた本尊を崇めたりしていました。これはいけないと、蓮如は本尊の多くを風呂をたく時の釜の中に投げ入れて、燃やしました。
「なんというヤツだ!」
「今度住持になった蓮如という者はけしからん」
そう言って、天台宗や、同じ浄土真宗ながら別系統の真宗高田派(しんしゅうたかだは)の専修寺(せんじゅじ)などから批判が集まります。しかし、蓮如は断固として、やりました。
南近江での布教活動
南近江を中心に、蓮如は精力的に浄土真宗の布教活動を行いました。
「帰命尽十方(きみょうじんじっぽう)無碍光如来(むげこうにょらい)」
こう記した十文字の名号(無碍光本尊)を、門徒に下しました。「帰命」は仏に従うこと。「尽十方無碍光如来」は十方世界に衆生の迷い悪逆にも遮らず光をもたらす如来。つまり阿弥陀如来をさします。
「ありがたや!」
信者たちはこの無碍光本尊を本尊としたので無碍光衆(むげこうしゅう)と呼ばれました。南近江での布教は着実に進んでいきました。
寛正の法難
蓮如の浄土真宗教団は近江にて勢いを伸ばしていました。となると面白くない勢力があります。
比叡山延暦寺です。
寛正6年(1465)正月8日、比叡山衆徒は比叡山の西塔に集まります。
「その昔、法然や親鸞は浄土宗を立てて他の宗派を誹謗した。
だから浄土宗停止の処分を食らった。
今の蓮如は、無碍光なる一派を打ち立て、無学の男女をたぶらかしている。
のみならず!
仏像や経典を燃やすという暴挙を行っている。
こんなことが許せるのか!?」
「許せぬ!!」
「そもそも本願寺は、延暦寺の末寺。であるのに
延暦寺に何の遠慮もなく、近江でゆがんだ仏法を広めている。
断固、討つべし」
ワアーーーーッ
翌9日。延暦寺衆徒はこぞって比叡山を下り、東山大谷の本願寺を襲撃します。
本願寺には、近く延暦寺からの襲撃があるとの情報は入っていましたが、まさか昨日今日とは思っておらず、油断していました。門に閂もしていませんでした。そこへ
「おらおらおらおら!
仏敵・本願寺はヨウシャせぬぞ」
わあーーーっと、延暦寺の衆徒が押し寄せてきました。
この時、蓮如は近江から桶屋を招いて、桶の出来を見ていました。
見事な作りですな。それはこの道ウン十年ですからね。素人さんがお気づきにならない工夫がいろいろとございます。なるほど道を極めるというのは大変なことですなあ…
ほのぼの話している所へ、わーーっと延暦寺の宗徒が襲ってきたので、
この桶屋がとっさに蓮如をはがいじめにして、「身柄は、確保した!」
延暦寺側はこの桶屋を味方と思って安心しきっている所へ、隙を見て桶屋は蓮如上人を逃がし、事無きを得ました。
「おのれ蓮如!どこへ消えたーーッ!!」
延暦寺の衆徒は乱暴の限りを尽くし、本願寺の坊舎を破壊し、貴重な宝物など略奪しまくりました。
延暦寺との和睦
すぐさま近江に使者が飛び、延暦寺の襲撃があった旨が伝えられます。
門徒たちは話し合います。
「どうしたものか?」
「こんなのは難癖だ。法論でやりこめよう」
「いやそれは恨みを買うだけだ。
どうだろう、いっそ金で解決しては…」
「というわけで蓮如さま、延暦寺にワイロを贈ろうということになりました」
「ううむ…そういうやり方は感心せんなあ」
はじめ蓮如上人は反対しましたが、結局金が一番早いということで、延暦寺に三千貫を渡して見逃してもらうことにしました。しかも一回だけの入金ではありません。以後、毎年三千貫送る羽目になります。
寛正6年(1465)寛正の法難です。
それにしても延暦寺…ヤクザも真っ青のボッタクリ集団ですね。かの白河上皇も手を焼いたわけです。
堅田 本福寺
延暦寺に襲撃された後の蓮如上人は、しばらく京都・摂津・河内と点々とした後、近江に入り、近江の信者の手引きで近江各地を転々とします。
「えええーい蓮如はどこに消えた!」
「蓮如を出せ!!」
その間も、延暦寺による蓮如追及に手はやみませんでした。近江の浄土真宗寺院が叩き壊されたり、本尊が奪われたりしました。
蓮如の亡き妻如了尼(にょりょうに)は室町幕府の政所(まんどころ)執事をつとめる伊勢定親の一族です。
そのため、幕府も蓮如に対して同情的でした。延暦寺に対してこれ以上の乱暴まかりならんと通達が出されますが、まるで効果がありませんでした。
応仁元年(1467)2月、蓮如は堅田の本福寺(ほんぷくじ)に居を定めます。また、前の寛正の法難で破却された東山大谷にあった親鸞聖人の絵像も、本福寺に移されました。
「やあやあ皆さん、堅田はいい所ですね」
蓮如は堅田の門徒の家々に気さくに出かけて行って法話をしました。堅田は本福寺を中心に、にわかに門前町の賑わいが出てきました。
この年、京都では応仁の乱が始まります。以後、11年間にわたって戦は延々続き、京都の町が焼け野が原となりました。近江でも六角氏と京極氏がそれぞれ東軍と西軍に分かれて争い、京都だけでなく本国近江でもお互いの城を攻撃しあいました。
堅田から大津へ
「蓮如は堅田にいるらしい」
「堅田で門徒たちが蓮如を持ち上げて、よからぬ企みをしているぞ!」
「おのれ蓮如…今度こそ叩き潰してやる」
延暦寺の衆徒は、蓮如が堅田にいることを早くも聞きつけ、攻撃の機会をうかがっていました。そんな折、将軍家の「花の御所」を造営する木材を運んでいる舟が琵琶湖で海賊に襲われるという事件がありました。
海賊は堅田の者でしたので、将軍足利義政は怒って、延暦寺に命じます。堅田を攻めよと!
「よしきた!」
かねてから蓮如の本願寺教団を憎たらしく思っていた延暦寺にとっては、渡りに船でした。
「た、大変です。延暦寺が攻めてくる。早くお逃げください!」
情報が堅田に届くのは早かったです。延暦寺にも蓮如の味方がいて、知らせてくれたのでした。
「急いで船を出しましょう!」
親鸞聖人の絵像を一艘の船に載せ、蓮如とその門徒たちは堅田から船に乗り込み、湖水をすべるように進み、大津に至りました。その後、蓮如上人は大津の浜松坊に親鸞聖人の御影(祖像)を安置して、息子の実如(じつにょ)に本願寺住持の座を譲りました。これが応仁2年(1468)3月中旬のこと。
3月下旬。延暦寺の衆徒は大挙して堅田を襲い、さんざんに略奪を行います。堅田大責(かただおおせめ)です。
「火を放て!」
ひゅん、ひゅんひゅん
ゴワーーーーー
わあーーーーーーー
きゃーーーーーーーーー
容赦なく堅田の城を焼き払う延暦寺衆徒。焼き討ちは5日間にわたりました。「もはや堅田は持たぬ」そこで堅田の浄土真宗門徒たちは船に分乗し、沖の島に逃れました。
応仁の乱 泥沼化する
都では応仁の乱がいよいよ長期戦の様相を呈してきました。そもそも応仁の乱は将軍の後継者問題に端を発し、幕府の有力者、細川勝元と山名宗全の対立に加えて、畠山氏、斯波氏といった幕府有力大名の家督争いがからみ、西と東に分かれて全国を巻き込んだ大バトルに発展していったものです。
細川勝元の東軍は16万1500余騎、山名宗全の西軍は11万6千余騎と記録されています。
当初、すぐに戦は終わると思われました。数において勝る東軍がすぐにも勝利するだろうと。しかも東軍は将軍である足利義政、後花園上皇、後土御門天皇を擁していました。大義名分という点でも、東軍に軍配が上がりそうでした。
しかしここに番狂わせが生じます。
一つは周防の有力大名・大内政弘の参戦です。大内政弘が大軍を率いて上洛し、西軍に味方したことにより、それまでの戦力バランスが崩れます。
もう一つは、足利義政の弟・足利義視が裏切って西軍に走ったことです。
これにより西軍は大義名分を得ます。
兄である足利義政と、弟である足利義視が、それぞれ東軍と西軍の大将となって戦いがいよいよ泥沼化していきました。
応仁の乱における本願寺の立場
応仁の乱における本願寺の立場を示した、面白いエピソードが伝わっています。
京都で東軍と西軍がにらみあっていた時、蓮如の長男・順如は将軍足利義政より呼ばれました。順如は陣中見舞をもって将軍に拝謁します。それから酒宴の運びとなります。順如殿に舞を一席所望いたす。舞、とんでもございません私などとても。いやいや、そう謙遜されますな。
将軍足利義政があくまで所望するので、では。順如が舞いはじめると、
おお…
なんと…
そのあでやかな舞い踊りに、陣中の者たちはうっとりして言葉を失います。
その後、順如は西軍の足利義視のもとにも陣中見舞いをもって参上しました。
「さきほど公方さまの元で舞を披露してまいりました」
「なに、兄上のもとで」
「つきましては、こちらでも披露させていただきたいのです」
「ほう。やってみろ」
そこで順如は東軍と西軍の陣地の中央に畳を敷き、
「我らがある所にては、敵味方あるべからず」
そう言って、ひらりひらり優雅に舞い踊りました。
おお…
素晴らしい…
東軍、西軍それぞれの陣地から感嘆の声がもれます。この時ばかりは戦を忘れて、東軍・西軍分け隔てなく、酒を酌み交わした…という話です。
(『天正三年記』)
次回「吉崎」お楽しみに。