蓮如(三) 吉崎

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吉崎入り

文明3年(1471)4月、蓮如上人は大津を後に、越前吉崎に向けて旅立ちます。

時は応仁の乱の真っ最中です。

新天地・吉崎!

移住は以前から蓮如は考えていたようです。三代覚如上人以来、歴代の本願寺宗主は越前に精力的に伝道していました。蓮如の父・存如もです。そのため蓮如は歴代の本願寺宗主たちの志を継ぐ形で、越前での伝道を考えたようです。

しかし、蓮如が越前に下向するには一つ、障害がありました。

越前を支配する朝倉孝景(あさくら たかかげ)は応仁の乱において西軍に属していました。一方蓮如は将軍家とのつながりが深く、したがって東軍よりでした。なので西軍支持の朝倉氏がいる限り、東軍よりの蓮如が越前には入ることには危険が伴いました。

ところが、文明3年(1471)、これまで西軍支持だった朝倉孝景が一転して東軍につきます。

「時は来た!」

こうして文明3年(1471)4月、蓮如はかねてから計画していた吉崎移住を実行したのでした。

わずかな門徒とともに蓮如は近江の金森(かねがもり)から堅田(かたた)を経て若狭、越前に入りました。

途中、堅田で。

ある寺に立ち寄った時、寺の者が蓮如上人に言いました。

「ここに寺を建てるわけにはいかないのですか」

その時、蓮如上人は持っていた扇で比叡山を指して、

「あれが近いですから」

そう言って申し出を断ったと伝えられます(『本福寺由来記』)。比叡山延暦寺とはとことん犬猿の仲でした。

文明3年(1471)7月、蓮如は越前吉崎に一宇の坊舎を建立します。

「なんと素晴らしい景色だ…」

蓮如は吉崎について書いています。

加賀・越中・越前三国の間にあって、要害の地であり、高台にあるので景色もすこぶるよいと。すごく気に入っています。

既存仏教からの反発

「蓮如上人が越前に来られたって?」
「ありがたい話が聞けるわよ」

そんなふうに、加賀・越前・越中の門徒たちがゾロゾロ集まってきます。彼らは競い合うように宿泊施設を造り、100軒から200軒が立ち並びました。そこで中央に馬場大路を通し、北大門(ほくだいもん)・南大門を設けました。

吉崎はがぜん、寺町のにぎわいを出してきました。

しかし、蓮如と本願寺門徒たちの動きに不満をたぎらせる連中がありました。

越前には古くから白山(はくさん)・平泉寺(へいせんじ)・豊原寺(とよはらじ)など、天台宗や修験道の寺があります。これら旧仏教勢力が、蓮如に反感をたぎらせます。

「近頃近江より吉崎に念仏坊主が下ってきて、老若男女を集めては念仏の他に救われる道無しと説いている。他の宗派をはばからず、そんなことを盛んに言ってるのだ。とんでもない話である」

また、同じ浄土真宗ながら別系統の高田専修寺(せんじゅじ)も蓮如に敵意をあらわにしてきました。浄土真宗なので、専修念仏…念仏さえ唱えれば誰でも救われるという考えは共通しますが、蓮如は「ただ念仏するだけではダメです。そこに信心がなければ」すると専修寺では「それはおかしい。専修念仏とは信心の有無に関わらず念仏すれば救われるという話だ。あんたが間違ってる」「いいや、あんたが間違ってる」…

まあこんな話をいくら議論しても結論なんか出るはずもないんですが、…実際結論は出ず、議論は空回りに終わりました。

嫁おどしの鬼の面

越前の人たちが蓮如に帰依すること篤かったことを示す物語が伝わっています。

吉崎近くで農家を営む与惣治(よそぢ)という者が、嫁の清とともに蓮如に深く帰依し、毎晩法話を聞きに行っていました。

「何度聞いてもいいねえ蓮如さまのお話は」
「心が洗われるようだわ」

そんなことを言っていた夫婦を見て、与惣治の母は不満をたぎらせていました。

「息子夫婦がインチキ坊主に騙されている。何とかしないと」

そんなある日、与惣治は用事で他に出かけることになり、嫁だけが吉崎に参詣することになりました。

「しめた!」

そう思った母は、村の八幡宮にある鬼女の面をかぶり、嫁を脅かそうと竹藪の中に潜んで待ちました。

「あっ…嫁が来た。ぷぷぷ…ひどいことになるとも知らないで」

ざっざっざっざっ。

闇夜の中、歩いてくる嫁。

「はあ…蓮如上人のお話しの、今日もなんと素晴らしかったこと」

その時!

「ばああ!!」

「きゃああああああ!!」

嫁は悲鳴を上げて、すっ飛んで家に逃げ帰りました。

「あははは。あのザマ。私の勝利かしらね」

そこで母が鬼女の面を取ろうとした所、

「あれっ…あれあれ…なぜかしら。取れない。ああ、そんな、恐ろしい」

きゅうう。

母はぶっ倒れてしまいました。

「どうしようお母さまがいないのよ」
「ほんとうだ、どこに行ったんだろう」

夫婦が探した所、竹藪の前で鬼女の面をかぶったままブッ倒れている母を発見しました。

「よよよ…一生このままなんて、あんまりだよ」

泣き叫ぶ母。夫婦は優しく言います。

「大丈夫ですよお母さん、蓮如さまは、どんな罪人でも悔い改めて念仏すれば救われるとおっしゃっています。いっしょに念仏しましょう」

「うう…念仏かい」

「さあ一緒に。なもむみだぶつ」

「なもあみだぶつ」

三人で念仏を唱和すると、…鬼女の面はするりと取れました。

「ああありがたいことだよ蓮如上人。クソ坊主なんて思ってた私が間違いだった」
「お母様」

三人で蓮如のもとに行って、事の顛末を語り、ああ左様でしたか。何といっても、念仏のありがたさですね。南無阿弥陀仏と、しみじみ語り合ったという話です。

御文

吉崎の地で、蓮如上人は広く一般の人々に浄土真宗の教えを示すため、わかりやすい仮名の文章を書いて人々に与えました。後にこういった文章が集められ、「御文」と呼ばれ、浄土真宗の法要の中で読まれる、重要なものとなっていきます。

その内容は、要するに他力の信心。自分自身の努力や修行によって救われるのではなく、自分をすべて捨て去って、阿弥陀如来の広大無辺な慈悲にすがる時に救いがあるのだという話です。

これは親鸞の考えそのものですが、蓮如は親鸞の考えから一歩進めて、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけではダメだ。そこに感謝の気持ちがなければと説きました。つまり、阿弥陀如来さまが救ってくださる。俺のようなロクでも無い者でも救ってくださる。なんとありがたいことよと、感謝する。その時、感謝の気持ちが、自然に、南無阿弥陀仏という六字の名号となって出てくるものだと。

つまり、南無阿弥陀仏は感謝の気持ちの表れであって、ただ闇雲に念仏してもダメなのだと蓮如は説きました。

また蓮如は浄土真宗には師匠と弟子というものはなく、等しく親鸞の弟子であると説きました。だから弟子を指導するのに折檻するなどは、蓮如に言わせると言語道断なわけです。これは親鸞の「私は弟子は一人ももたない」という有名な言葉に基づきます。

しかしこれにも反論が来ました。いや蓮如殿はそうおっしゃるが、浄土真宗では昔から師匠から弟子への伝達を重んじていた。

それが証拠に親鸞は実子である善鸞(ぜんらん)を後継者とせずに、弟子である顕智(けんち)を後継者としたではないかと。うーん…ややこしい問題ですね。どっちとも言えないような。親鸞が出てきて「こうだ!」と言ってくれればラクなんでしょうけどね。

次回「吉崎退去」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永