蓮如(一) 大谷本願寺

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浄土真宗中興の祖・蓮如上人。本願寺の跡取りとして生まれ、越前・吉崎、大坂河内、京都山科と拠点を移しながらも、関東・関西一円に浄土真宗の教えを広め多くの門徒を獲得していきました。

延暦寺からの弾圧や同じ浄土真宗内部での争いは熾烈をきわめましたが、蓮如上人は粘り強く、親鸞の教えを述べ伝えました。

もし蓮如上人がいなかったら、親鸞の教えが日本全国津々浦々までに広まることはなかったでしょう。

また蓮如が中興した本願寺は戦国時代を通して武田信玄、織田信長、上杉謙信など戦国大名たちと対等の勢力として渡り合い、政治上・軍事上の大きな影響力を持ったことはよくご存じのとおりです。

蓮如の生涯をたどることは、単に浄土真宗という一つの宗教について知るのみならず、戦国時代について、宗教という側面から光を当て、より立体的な知識を身につけることにつながります。

蓮如の出生

浄土真宗中興の祖・蓮如は、応永22年(1415)、門跡寺院である青蓮院(しょうれんいん)の南の大谷本願寺にて、七世・在如の子として生まれます。母の素性や名前は不明です。

この応永22年という年は、四代将軍足利義持の8年目です。関東では関東管領上杉禅秀と鎌倉公方足利持氏が対立を深めていました。翌応永23年、上杉禅秀と足利持氏はついに鎌倉で武力衝突に至ります。上杉禅秀の乱です。結果、上杉禅秀は破れました。しかしその後も関東では永享の乱、享徳の乱と戦が続いていきます。そんな社会背景の中、蓮如上人は生まれました。

蓮如上人が生まれた頃の本願寺は京都青蓮院のすぐ南に位置する300坪ほどの小さな寺でした。

本願寺について

そもそも本願寺の始まりを言うと、

弘長2年(1262)祖師・親鸞が亡くなった時、その遺体は東山大谷の地に埋葬されました。文永9(1272)年、親鸞の末娘の覚信尼(かくしんに)が吉水の北に墓を移し、大谷には親鸞聖人の木造を収めたお堂「御影堂(ごえいどう)」を立てます。この御影堂が本願寺のルーツです。御影堂は留守職(るすしき)という墓守が代々守っていましたが、三代覚如(かくにょ)上人の時、本願寺と名を改めました。

後に八代住持となる蓮如上人が生まれた頃の本願寺は祖師親鸞聖人の像と阿弥陀仏の像を安置した御影堂と、住持の坊舎があるだけでした。信徒の数は少なく閑散としていました。一方、同じ浄土真宗でも渋谷(しるたに)の仏光寺(ぶっこうじ)は多くの信徒を得て賑わっていました。

「どうしてわが本願寺はこんなに落ち目なんだ。
なんとかせねば…」

蓮如上人の父・存如上人はそんなふうに思っていたことでしょう。

母との別離

応永27年(1420)蓮如上人6歳の時、上人の母は突然、本願寺を出て行きます。

「私はここにいるべき者ではありません」
「そんな!!母上、何をおっしゃいますか。
意味がわからないですよ!」

どうやらこの頃、蓮如上人の父・存如上人が如円尼(にょえんに)と結婚する運びとなったため、側室であった母は遠慮して本願寺を去っていったようです。

「親鸞聖人の教えを守って、広めていくのですよ」

「母上!母上!…」

6歳にして母と引き離された蓮如上人。その悲しみは大変なものだったでしょう。

母と切り離された悲しみを振り払うように蓮如上人は学問にはげみます。父存如上人の指導のもと、浄土真宗の聖典を熱心に学びました。中にも、後に浄土真宗本願寺派の聖教(しょうぎょう。根本的な経典)とされる『安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)』を熱心に書写なさいます。15歳の時、蓮如上人は一つの志を立てられます。

「親鸞聖人の教えを広く人々に述べ伝えるのだ」

得度

永享3年(1431)蓮如上人17歳の時、日野家の一族である権中納言・広橋兼郷の猶子(ゆうし。養子に継ぐもの)となり、青蓮院(しょうれんいん)にて得度し、法名を蓮如と名乗りました。青蓮院は京都四大門跡に数えられる門跡寺院で、代々親王が門主を務める由緒正しい寺です。ここ青蓮院で得度することは、本願寺の代々の上人の伝統でした。蓮如もその伝統を踏んだわけです。

得度後、蓮如上人はいよいよ熱心に学問に励まれました。『安心決定抄』や、親鸞聖人の教えを記した『教行信証』など熱心に書写なさいます。その間、世の中はいよいよ混沌としてきました。

永享10年(1438)年には永享の乱が起こります。六代将軍足利義教と鎌倉公方・足利持氏の争いです。さらに2年後の永享12年(1440)には、前の永享の乱で死んだ足利持氏の二人の息子・春王と安王を担いで結城氏朝という者が常陸(茨城県)で足利将軍家に反旗をひるがえしました。

嘉吉元年(1441)には、暴君として知られた六代将軍足利義教が、家臣の赤松満佑によって暗殺されます。このように、関東でも、京都でも、血なまぐさい事件が相次いでいました。また社会不安が高じて、土民による土一揆も多発していました。徒党を組んで酒屋・土蔵と呼ばれる高利貸しの屋敷や蔵に押し寄せ、借用証書を燃やしたり、宝物を奪い取ったりしました。

このように、社会不安がいや増しに増す世相ではありましたが、蓮如上人の学問のさまたげになることはありませんでした。

「濁世救済」

この濁り切った世の中を浄土真宗の光で照らし、人々を救済する。その思いで、いよいよ熱心に蓮如上人は学問に打ち込むのでした。

父存如の元で修行

蓮如上人が得度した頃はまだ祖父の巧如(ぎょうによ)上人が本願寺の住持を務めていましたが、永享12年(1440)、巧如上人は亡くなり、蓮如の父・存如が住持となります。時に蓮如26歳。以後、蓮如上人は父存如を補佐して、本願寺の運営にあたり、父のもとで寺の運営の実務を覚えて行きます。

東国下向

その間、宝徳元年(1449)には北陸を経て遠く奥州まで趣きます。祖師親鸞に関する遺跡を見てまわり、東国の各地で教化を行いました。仙台で一泊した後は松島を訪れています。

「祖師親鸞さまも、この景色を御覧になったのか…」

しみじみ、感慨にふけるこ場面もあったでしょうね。これが蓮如35歳の時。馬にも乗らず、お供を二人だけの草鞋がけの旅でした。後年、蓮如はこの旅のことをなつかしく思い出話に語っています。

妻の死

蓮如上人の最初の妻について。

妻如了尼(にょりょうに)は、室町幕府の政所執事を世襲する伊勢氏の娘です。如了尼と蓮如の間には長男順如をはじめ四男三女が生まれました。その如了尼は康正元年(1455)、亡くなります。

「すまなかった。お前には苦労ばかりさせて…」

蓮如上人は妻の亡骸を前に、涙したことでしょう。なにしろ蓮如が住持になる前の本願寺は貧しかった。食べ物もまともになく、一杯の汁を水で薄めて三人ぶんにして食べるといったありさまでした。

父の跡を継ぐ

妻如了尼が死んだ二年後の康正3年(1457)、今度は父存如が亡くなります。幼い頃から蓮如に学問を授け、蓮如の基礎を作ったといえるのが父存如でした。その父存如が亡くなりました。前々からの遺言により蓮如が跡を継ぐべきところですが、存如の正妻である如円尼(にょえんに)が、わが息子蓮生(れんしょう)を跡取りにしようとして策動しました。

結局、叔父の仲立ちによって蓮生に家督を継がせる件はひっこめられ、蓮如が八代目の本願寺住持として就任しました。この年改元あって、長禄元年(1457)。

次回「親鸞に帰れ」お楽しみに。

解説:左大臣光永