織田信長(二十四) 槇島城の戦い
足利義昭 宇治槇島城へ
元亀4年(1573)7月3日、足利義昭は京都二条城を出て、宇治の槇島城(まきのしまじょう)に立てこもります。槇島城は宇治川から流れ込む巨椋池(おぐらいけ)の中州にある砦です。
槇島城
「回りを水に囲まれている、この鉄壁の城を!
さすがの信長もどうにもできまい!」
戦の素人であった足利義昭はそのように信じ込んでいました。
信長 二条城を攻める
「やはり背いたか」
信長は佐和山城から船に乗り、琵琶湖を渡り坂本に上陸すると、坂本に二泊した後、上洛。妙覚寺に本陣を置きます。
二条城にいた公家たちは信長軍に包囲されると、
「ひいい、許してくれ!逆らう気は無い!」
さっさと降伏してしまいます。
城主三淵藤英(みつぶちふじひで)だけは粘りましたが、柴田勝家の説得により、城を開きました。信長は彼らに特にお咎めをしませんでした。しかし二条城は今後も将軍が立て籠る拠点となる恐れがあるので、信長軍によって取り壊され、中にあった貴重な宝物などは、強盗や市民に略奪されるに任せました。
信長 槇島城を攻める
こうして二条城を開城させてから、信長は7万騎をもって足利義昭の立てこもる槇島城(まきのしまじょう)を攻めます。一手を宇治川の上流・平等院の北東に、一手を川下の五ヶ庄(ごかしょう。現京阪宇治線黄檗駅あたり)に配置して、宇治川の上流下流両方から川を渡り、槇島城を攻めました。
槇島城
「火を放てーーーーーッ!!」
ひゅん、ひゅんひゅんひゅん
ごおーーーーー
「あ…あわわわーーーーっ、こ、こんなはずでは!!」
槇島城はカンタンに落ち、開城の流れとなります。
義昭 追放される
「ひいい、許してくれ!ほんの出来心だったのだ」
平謝りに謝った足利義昭は、幼い息子・義尋(ぎじん)を人質とて信長に差し出し、槇島城を追放されました。ここに尊氏以来約240年続いた室町幕府の歴史は幕を閉じました。
「おのれ信長…余は必ず帰ってくるぞッ!!」
義昭は行く先々で「貧乏公方」とののしられながら、まだ!信長に屈服したつもりはありませんでした。必ず将軍の座に返り咲けると信じていました。
次の章「織田信長(二十五) 朝倉・浅井を亡ぼす」