織田信長(二十三) 足利義昭、挙兵
足利義昭の挙兵
信長と足利義昭の関係が完全に決裂したのは、元亀4年(1573)2月13日のこととされます。前々から足利義昭と織田信長は水面下で争いを続けていましたが、ここに至り、武田信玄・朝倉義景・浅井長政・本願寺顕如といった信長包囲網が形成されつつありました。それを受けて足利義昭は
「信長を討て!」
と、各地の反信長勢力に檄文を飛ばしました。
足利義昭が越前に側近の光浄院暹慶(こうじょういん せんけい)を派遣すると、知らせを受けた浅井長政もこれに合流し、今堅田(いまかただ)・石山(いしやま)に砦を築いてたてこもり、反信長の構えを取ります。
浅井・朝倉と協力し、信玄の西上を待つ。それが義昭の考えでした。
そうはさせじと信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四将を近江に差し向けます。石山城はまだ完成途中だったのですぐに落とされ、今堅田城もカンタンに落とされます。
これによって足利義昭、完全に計画が狂ってしまいました。しかも、頼みにしていた武田信玄は三河の野田城で止まり、なぜか一歩も動かなくなりました。
講和ならず
戦後の講和は破談します。おそらく松永久秀が、義昭に働きかけたものと思われます。信長と講和など結んでいけませんよ。切ってしまいなさいと。
織田信長と足利義昭、破談。
それを聞いて畿内の大名たちが次々と上洛してきました。
「いよいよ信長と一戦交えるのですな」
「私もお味方いたします」
信長への包囲網は狭まっていました。信長はこの時期、かなり苦しい立場に立たされていたと言えます。
京都焼き討ち
元亀4年(1573)3月25日、信長は足利義昭を討つため、岐阜を出発します。この頃、東方では武田信玄が信濃まで撤退しており、もはや信玄から背後を脅かされる心配はあるまいと判断しての出陣でした。
信長は近江と山背の国境・逢坂山にて荒木村重・細川藤孝と合流。その日の正午頃、京都に入り、信長は知恩院に本陣を置きます。軍勢は京都の東一帯に布陣していました。
4月2日、3日の両日。信長は京都郊外に火を放ちます。
ごおーーーーー
ぎゃーーひいいいいーーーーー
前の比叡山焼き討ちに続く、信長の荒々しい所業でした。その一方で信長は二条城の足利義昭に使者を送り、降伏勧告をしますが、義昭はこれを無視。
「ぐぬう…かくなる上は」
3日深夜から、信長は上京あたりに火を放ちます。
ごおおおーーーーーーーーーーーーーーーーー
京都の中心部です。将軍御所は二条城にあり、また、内裏も近いです。
「あわわ、何ということを!」
あわてて吉田神社の神官が信長の知恩院の本陣に飛んできて、
「帝を、吉田神社に逃しますが、よろしいですか」
「うむ。それは認める」
しかし、その後も焼き討ちは止まらず、4日の夕方まで続き、
北は上御霊神社から南は将軍御所である二条城の手前まで焼けました。しかし信長は注意深く、天皇のいらっしゃる内裏と、将軍のいらっしゃる二条城は避けて火をかけてませんでした。つまり、義昭に降伏を迫るための脅しでした。
この時点になっても織田信長は足利義昭とまだ君臣の関係を保とうとしてるんですね。気が短い信長としては、ものすごい忍耐だったでしょう。
それにても…脅しのために家を焼かれた京都市民にとっては、たまったもんじゃないですが。
これが元亀4年(1573)4月2日、3日、4日のこと。
しかし義昭はガンコでした。ぜったいに降伏はイヤじゃ。信長に降伏?とんでもない話であると。
だから信長も困り果てます。
天皇のおっしゃることなら聞くだろうと、信長は正親町天皇に講和の仲立ちをしてくださいと、働きかけます。こうして天皇の仲介によって信長と足利義昭の間にようやく講和が成立しました。
4月7日、信長は岐阜に引き返していきました。
義昭、各地の大名に呼びかけ
しかし、足利義昭は心から講和を受け入れたわけではありませんでした。天皇の勅命だからシブシブ受け入れたというに過ぎませんでした。
その後も足利義昭は諸国の大名に呼びかけます。信長と戦ってほしいと!
呼びかけた大名は…武田信玄・朝倉義景・浅井長政・本願寺顕如・遠く中国の毛利にも書状を送っています。
武田信玄はこの時すでに死んでますが、信玄の死を足利義昭は知らなかったようです。
信長 船団造営
一方、織田信長も足利義昭のことを信用してはいませんでした。こやつ、必ずまた背くなと。
そこで信長は岐阜から近江の佐和山城に入り、佐和山城城主・丹羽長秀に命じて、琵琶湖に船団を造営させます。義昭が事を起こした時には、琵琶湖の湖水をすべるように船を進め、まっさきに攻撃に赴けるようにとの準備でした。
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