織田信長(二十二) 三方ヶ原の合戦
三方ヶ原の合戦
「とはいえ、地の利はこちらにある。
武田が祝田(ほうだ)の坂を下りた所で、背後を突くぞ!」
徳川軍は浜松城を出て、織田の援軍とともに鶴翼の陣を作って武田軍の背後から襲いかからんとします。
一方、武田軍は三方ヶ原北方の祝田(ほうだ)に向かっている所でした。
「やはり家康は出てきたか。…全軍反転!」
信玄は全軍を反転させ、
「かかれーーーッ」
魚鱗の構えをなして、徳川軍に襲いかかります。
もとより兵力は武田方が優勢。
兵力を温存していた武田方の部隊が次々に投入され、徳川方の鶴翼の陣はもろくも切り崩されていきます。
「ひ、ひいいいーーーっ、か、かなわぬ」
徳川家康はほうほうの態で浜松城に逃げ帰ります。
2時間ほどで戦は終わりました。武田軍の圧勝でした。
ワアァーーーーーッ
勝どきを上げる武田軍。
「ああ…おしまいだ…
今度こそ信玄は浜松城に攻めてくる。
そうなったら、もう…」
ビビりまくる徳川家康。
しかしここで武田軍は、不可解な行動に出ます。
浜松城は完全に無視して、三方ヶ原北方の刑部(おさかべ。静岡県浜松市)に移動。さらに不思議なことに、刑部から一歩も動かなくなりました。
「何を考えているのだ信玄は…」
困惑する徳川家康。
そのまま10日…20日…ついに年を越してしまいました。
信玄の病
この時信玄には動けない理由がありました。
一つが北近江で信長軍と戦っていた朝倉義景が撤退したこと。
もう一つは病でした。
翌元亀4年(1573)正月、武田信玄の病状が一時回復したのか、武田軍はようやく刑部の地を離れ、三河に侵攻。徳川方の野田城(愛知県新城市野田)を落とします。
「何としても京にたどり着き、武田の旗をたなびかせるのだ…」
それが信玄の執念でした。
しかし、病状は一進一退しながら、確実に信玄の体を蝕んでいました。
「ぐはっ…ごほっ…」
喀血に次ぐ喀血。
同年2月、信玄の病状については上層部にしか知らせないまま、長篠城(愛知県南設楽(したら)郡蓬来町)に移ります。その後、武田軍は長篠城から全く動かなくなりました。翌3月に入っても、まったく動きませんでした。
「いったい…武田信玄は何を考えているのだ」
武田を攻めている側の徳川・織田も信玄の真意をはかりかねていました。
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