織田信長(二十一) 信玄、西上

武田・織田の決裂

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は甲府を出陣します。いわゆる武田信玄の西上作戦の始まりです。

武田信玄の生涯最期の軍事行動となった、この西上作戦については、現在でも意見が分かれています。

何を目的としていたのか?

上洛して、足利将軍を補佐する立場から天下に号令することを考えていたのか?

あるいは、

遠江一国を切り取るための単なる局地戦だったのか?

いまだに結論が出でいません。

三方ヶ原前哨戦 美濃岩村城の戦い

信玄の本隊は、諏訪を経て秋葉街道(あきばかいどう)を南下。青崩峠(あおくずれとうげ)から天竜川を南下して、北から遠江に侵攻しました。

一方、秋山信友(あきやまのぶとも)率いる別動隊は美濃に向かい、信長の居城・岩村城(岐阜県恵那市岩村町)に奇襲をしかけています。

「ひ、ひいいーーーっ武田の奇襲だ!」
「なぜ武田が!!」

岩村城は信長にとって結びつきの深い城でした。城主遠山景任(とおやまかげとお)のもとに、信長は自分の叔母を嫁がせていました。また、城主遠山景任には跡取りがいなかったので、信長は末っ子の勝長(かつなが)を遠山景任の養子に出していました。

「岩村城を救え!
遠山景任を討たせるな!」

信長はすぐに岩村城に増援を送りますが、

岩村城の守備隊は抵抗もそこそこに打ち破られ、アッという間に岩村城は落ちます。城主・遠山景遠も討ち死にします。以上が、三方ヶ原の前哨戦と言われる、岩村城の戦いです。

これらの知らせを受けて織田信長は激怒します。

「信玄の所業、まこと前代未聞の無道!
侍の義理を知らぬ!もう信玄とは絶好じゃ
未来永劫、ふたたび相通じることはするまい」

武田信玄と織田信長はそれまで敵対していたわけではありませんでした。むしろ両者の間ではたびたび書状のやり取りが行われ、ゆるい友好関係が築かれていました。しかし、ここに至り、武田と織田の関係は完全に決裂します。

怒った信長は武田信玄をけん制するため、あろうことか越後の上杉謙信と同盟を結びます。

信長はこの時の武田信玄に対する怒りを、非常にしつこく後々まで覚えていました。これより2年半後の、天正3年(1575)の長篠の合戦で、武田勝頼を破った時に、信長は臣下の細川藤孝に、こう書状を送っています。

「今回、勝頼が惨敗したのは父信玄が非道を働いたからだ。
古い恩義を忘れ、やりたい放題やったからだ」

そのように言っています。執念深いですね。

浜松城

元亀3年(1572)12月22日、武田軍25000は二股城を出発。徳川家康の拠点である浜松城に向けて移動を開始します。

さて。

浜松城には徳川家康がいました。

「次に信玄が狙ってくるのはこの浜松城。
もはや直接対決は避けられぬ」

徳川8000に織田の援軍3000が加わって11000。
対して武田方は北条の援軍とあわせて25000。

圧倒的に武田有利でした。

「かくなる上は籠城戦しかない」

徳川家康は浜松城に立てこもり、武田軍を迎え撃つ構えを取ります。

時に家康31歳。信玄52歳。

元亀3年(1572)12月22日、武田軍2500が浜松城城下に姿を現します。

しかし。

「どういうことだこれは!!」

武田軍は浜松城を無視して、浜松城城下をゆうぜんと通り過ぎ、北に進路を変え、三方ヶ原に抜けて行きました。

「おのれ信玄、浜松城を無視するか!待てい!!」

徳川家康には織田信長の援軍3000が来ていました。援軍を要請した手前、目の前を通過する敵を黙って見過ごしたとあっては、後々、信長との関係が悪化します。そういう判断もあり、徳川家康は打って出るしか、ありませんでした。

解説:左大臣光永