織田信長(十八) 比叡山焼き討ち

比叡山焼き討ち

元亀2年(1571)5月。

信長は自ら軍勢を率いて琵琶湖の南に進撃し、本願寺一揆衆の立てこもる金ヶ森城(現滋賀県守山市)を攻撃します。金ヶ森城をカンタンに落とすると、同9月。信長は踵を返して大津三井寺付近に布陣。ここを拠点として坂本の町に乱入し、比叡山に押し寄せ、

「火を放てッ」

ひゅんひゅんひゅん

ぼ、ぼわーーーーーっ

うわああーーーーーーー
ぎゃあーーーーーーーーー

灼熱。大灼熱。

逃げまとう延暦寺の僧兵たちのみならず、女・子供に至るまで千人あまりを焼き殺します。

元亀2年(1571)9月12日。延暦寺焼き討ち事件。

かつて六代将軍足利義教が延暦寺を焼き討ちにしたことがあったようですが、信長の焼き討ちは義教のそれとは比較にならない、大規模かつ凄惨なものでした。

「いつかは潰さねばならない敵であった…」

昨年、浅井・朝倉連合軍が比叡山に陣を取った時、敵を引き渡せ、そして信長に味方しろと延暦寺に要求しましたが、延暦寺は信長の要求を無視。そのことを信長は恨みに思っていたようです。

比叡山焼き討ちの後、信長はわずかな家来だけを連れて上洛し、将軍足利義昭に、そして正親町天皇に事の次第を報告します。どちらからも比叡山焼き討ちに対して、特に抗議は出ませんでした。

長年にわたって比叡山…強訴といってムチャな要求を突きつけたり、散々暴れてきましたからね。内心、よくやってくれた信長という気持ちも強かったのかもしれません。

解説:左大臣光永