織田信長(十九) 近江・小谷城攻略

義昭・信長 蜜月時代

その後も、足利義明と織田信長の関係はバランスが取れていました。けして仲がいいわけではないけども、決定的に対立に至るわけでもないという二人三脚・持ちつ持たれつの関係です。

むしろ足利義昭は信長に気を遣う一面もありました。

「京都に屋敷が無いと不便だろう。作ってやる。いや、費用は気にするな。ぜんぶこっちでやるから」

そんな提案までしています。義昭・信長の蜜月時代と言えるでしょう。

本願寺顕如の信長包囲網

その間、本願寺顕如が反信長勢力の中心として各地の反信長勢力を集め、信長包囲網を築かんとしていました。また東近江では浅井・朝倉連合軍が信長に敵対していた。そんな状況の中、

元亀三年 小谷城攻め

元亀3年(1572)7月19日、信長は5万の軍勢を率いて岐阜から出陣し近江に入り小谷城を攻めます。これは嫡男信忠の初陣でもありました。

「信忠、怖くはないか」
「怖くないです。信忠は戦えます」
「よし。そのイキぞ」

そんな感じだったでしょうか。

信長は小谷城周辺の支城に次々と放火し、小谷城南2キロメートルに位置する虎御前山(とらごぜやま。現滋賀県長浜市)に陣を取り総攻撃の構えを取ります。

「なに、小谷城が信長に攻められている!
まずい」

7月28日。

朝倉義景が1万の軍勢を率いて越前から近江に進んできました。しかし。織田軍5万に対して朝倉義景は攻撃をしかける決断がつかず、

「ああ、どうしたものか。信長軍は強そうじゃのう」

ただ小谷城近くの高台に陣取り、状況を見守るばかりでした。

「うむむ…朝倉義景、何をしておるか。
攻めるなら早く攻めてこぬか」

そう思った信長は朝倉義景をさかんに挑発します。側近の堀秀政(ほり ひでまさ)を遣わして、

「日を決めて一戦交え、勝負を決めましょう」

などと言わせました。しかし臆病者の朝倉義景は、

「いや、しかし、だがなあ」

ただ迷い、躊躇するばかりでした。

朝倉義景は戦国武将としての決断力に欠けていました。しかし朝倉義景のグズグズした態度は、結果として信長方に不利に働き、今回も小谷城を落とせぬまま、信長は軍勢を率いていったん横山城に集結し、岐阜に引き上げていきました。これが元亀3年(1572)9月16日のこと。

解説:左大臣光永