織田信長(十一) 足利義昭、十五代将軍となる

足利義昭 将軍就任

織田信長の招きにより越前を後にした足利義昭の一行は、美濃に入りました。

その頃信長は、近江の六角氏を相手どって戦っていましたが、その六角氏をようやく討伐し六角氏の拠点である観音寺城(現滋賀県近江八幡市)を奪取。

「露払いはすみました。今こそご上洛ください」

信長はそういう書状を、美濃にいた足利義昭に送ってきました。

「ようやく!ようやく念願がかなう!」

喜びの涙にむせぶ義昭。

永禄11年(1568)9月末。信長は上洛し、東寺に陣を敷きます。少し遅れて、足利義昭も上洛し、清水寺に入ります。

その後、織田信長と足利義昭は、畿内の三好三人衆の残存勢力を討伐した後、

10月、ふたたび京都に戻り、足利義昭は正親町(おおぎまち)天皇より征夷大将軍に任じられます。兄・足利義輝が殺されてから、近江・越前と点々と亡命し、三年間の流浪生活の末に将軍となったのでした。

「ようやくここまで来れた」

足利義昭、思わず涙したことでしょう。

すぐに足利義昭は能楽の座を設け、主客として信長を招きました。

「ふたたび上洛できたのはひとえに、信長よ、そちのおかげじゃ」

「とんでもございません。私など別段の働きは」

「いやいや、感謝しておる。そこでじゃ。そなたに管領か副将軍に就任してもらいたいのじゃ」

「と、とんでもございません。そのような畏れ多い」

信長は義昭の申し出を辞退し、けして受けませんでした。

「ああ何と信長は欲の無い男だ。
戦国の世にあのような信義に篤い男がいたとは」

つくづく感じ入る義昭。

が!

後にその信長との間が決裂することになろうとは!

この時は少しも考えていませんでした。

二条城造営

当初、義昭は日蓮宗本圀寺(六条堀川。現在は京都市山科区)を仮の御所としていました。

ところが。

上洛早々、この仮御所が三好一派に襲撃されるという事件が起こりました。

「やはり仮御所ではダメだ。しっかりした丈夫な城を建てなくては」

信長はそう考えて、人員を動員し、二条勘解由小路に70日間の突貫工事で御所を造りました。二条城です。後に徳川家康の建てた二条城と区別して、旧二条城と呼ばれます。

「信長よ!余を将軍にしてくれた上に、新しい御所まで造ってくれるとは!
何と礼を言っていいやら…よよよ」

「いいえ、礼などよいのです」

信長は御所を完成させると本国美濃に戻っていきました。

「信長、信長!」

感無量の足利義昭は粟田口から出て行く信長を遠く見送り、最後は石垣の上に立ってまで、遠ざかる信長の姿が見えなくなるまで、見送りました。

解説:左大臣光永