織田信長(八) 美濃平定

美濃侵攻

永禄4年(1561)5月11日、美濃の斉藤義龍が死に、息子の龍興が跡を継ぎます。「今こそ好機」信長は墨俣川を渡り、墨俣に要害を築いた、西美濃に侵攻しました。なんと義龍が死んで二日目のことでした。素早い軍事行動でした。しかしこの時は織田方・斎藤方双方に被害が出るも決着はつかず、次回に持ち越します。

「やはり清洲城では不利。それに美濃攻略中に今川に背後をつかれるという心配もある」

清洲同盟

そこで信長は今川家に仕えている松平信康(徳川家康)を味方に引き入れようとします。

徳川家康は、かつて織田家で人質になっており、信長と家康は幼い頃からの顔なじみでした。

そこで信長は、家康に味方になってくれるよう呼びかけます。

永禄5年(1562)正月、家康は清洲城に赴きます。

「殿、お久しぶりでございます」
「おうおう、三河の小倅が、立派になったのう」

家康は、何度手柄を立てても今川義元はサッパリ報いてくれなかったし、また、跡を継いだ氏真は暗愚の極みで、とても今川家に将来は無いと考えていたので、信長の申し出を快く受けました。そして今川義元から一字もらって松平元康と名乗っていたのをあらためて、家康としました。

こうして信長と家康は同盟を結びました。清洲同盟です。以後、信長と家康の同盟関係は、一度もゆらぐことが、ありませんでした。

美濃平定

永禄6年(1563)信長は拠点を清洲城から小牧城(小牧市)に移します。腰をすえて美濃攻略に取り組むためでした。とはいえ美濃攻略はカンタンには行きませんでした。

出撃するたびに多くの将兵を討ち取られ、被害が出てしまいます。

ところが。

永禄10年(1567)。

思わぬ好機が訪れます。

信長は美濃三人衆とよばれる斎藤家の実力者三人を調略によって寝返らせることに成功したのでした(永禄7年説もあり)。

同年8月1日、

今度こそ、やれるぞと、信長は西美濃に侵攻。

稲葉山の続き瑞龍寺山(ずいりゅうじさん)に上り、風の強さに乗じて火をかけ、稲葉山をはだか山にしてしまいます。

翌2日。稲葉山城のまわりを生垣でぐるりと囲みました。もはや猫の子一匹抜け出せないという状態です。

「これはムリだ…」

8月15日。観念した稲葉山城の将兵たちは信長に降参します。が。大将の斉藤義龍は、これでやられてなるものかと、稲葉山城を抜け出し飛騨川伝いに、伊勢の長島(三重県桑名市長島町)へ落ち延びて行きました。

「よし。美濃へ移るぞ」

美濃を平定した信長は、尾張小牧城を出て稲葉山城に入り、井ノ口(いのくち)という地名をあらため岐阜とします。(「岐阜」は周の文王が都を置いた「岐山」と孔子の出身地「曲阜」を合わせたと言われますが…語源には諸説あります)

以後、岐阜城が信長の居城となります。

解説:左大臣光永

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