織田信長(二) 平手政秀の死

赤塚の合戦~山口教継討伐

信秀が死ぬと、すぐに反対勢力が動きました。

天文21年(1552)4月。

知多半島の付け根・鳴海城(名古屋市緑区)の城主・山口教継(やまぐち のりつぐ)・教吉(のりよし)父子が今川に通じ、尾張領内に今川勢を引き入れたのでした。山口教継は鳴海城に息子教吉を置いて、笠寺(名古屋市南区)に砦・要害を築き、人員を配置しました。

「させるかッ」

19歳の織田信長は800騎の軍勢を率いて出陣。赤塚(名古屋市緑区)にて合戦となります。双方入り乱れ、火出づるほどに戦い、四五間を隔てて向かい合い、戦いは数時間に及びますが、決着はつかず、勝負は永禄3年の桶狭間まで持ち越されます。

平手政秀の自刃

「殿のうつけはいつまで経っても治らない。
もはや死をもって御諫めするほかない」

天文22年(1553)閏正月、思いつめた平手政秀は、主君信長を諫めるために本当に切腹してしまいました。

「政秀!政秀!なぜ死んだ。
俺のうつけのせいか?あれは…
世を欺く演技だったのだ。ああ!」

信長は春日井郡小木村(こきむら)に臨済宗政秀寺を建てて、平手政秀を弔いました。

平手政秀は万事において、風雅で心づかいのある人物でした。

織田信秀が斎藤道三を攻めて美濃に侵攻した時のこと、留守の隙をついて身内の清洲衆が古渡城に攻めてきました。信秀はあわてて美濃から戻ってきて、清洲衆を相手に戦うことになりました。

この時、平手政秀は戦いを好まず、しきりに敵方と和平交渉をします。やっとのことで和睦がなった時、平手政秀は昨日まで戦っていた敵方に喜びの手紙を送り、その初めの部分に、

袖ひぢて結びし水のこほれるを
春立つけふの風や解くらむ

袖を濡らしてすくった水が、冬の間凍っていたのを、春立つ今日の風が解かすのだろう、という意味の紀貫之の歌を記しました。このように平手政秀は万事において、風雅で心遣いのある人物でした。

解説:左大臣光永

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