織田信長(三) 斎藤道三との会見
斎藤道三との会見
「婿殿は大うつけと聞いておる。さて実際、どんなものか…」
天文22年(1553)4月下旬。斎藤道三はわが娘・濃姫の夫となった信長の器量を確かめようとしました。それで家督を継いだばかりの信長を富田(岐阜県一宮市富田)の聖徳寺にて対面したいといって、呼びつけます。
「ふん、来いというなら行ってやろう」
信長は木曽川を越え、飛騨川を越え、富田に入りました。
道三は街道沿いの小屋に潜んで、ひそかに信長が通りかかるのを待っていました。
そこへやって来た信長のいでたちは。
髪は茶筅まげを萌黄色の紐で巻き立てて、湯帷子を袖脱ぎにし、金銀飾りの太刀・脇差の二つとも長い柄なのを藁の縄で巻き、太い麻縄を腕輪に巻き、半袴をはき、腰の所に火打袋や瓢箪を七つ八つぶら下げ、虎皮と豹皮を四色に染め上げた半袴。
つき従う家来7、800人ほど、ずらりっと並べ、朱槍500本、弓・鉄砲500挺を持たせていました。
「あははは。あれはどうしようもない」
噂通りのうつけであったわい。
わしも適当な恰好で行こう」
道三が約束の会見場に行ってみると、
件の婿殿はさっきとは打って変わって、髪を整え、長袴をはき、短い太刀をはき、実にしゃきっとした姿でした。
「おお…」
「なんと…」
この時織田家の家臣たちも初めて気づきます。殿のうつけは演技であったのだと!
「ま、まあ婿殿、一献」
「義父上、以後よしなに」
こうして斎藤道三と織田信長は盃を酌み交わして別れました。帰っていく道三を信長は二十町ほども見送りました。その時、信長の家来衆の槍は長いのに、道三の家来衆の槍は短いのでした。
「ちっ…」
道三は物も言わず、面白くなさそうに帰っていきました。
「いや~どう見てもあれは阿保ですな」
家来がそう言った所、道三は、
「だから口惜しいのだ。ワシの子孫は、信長の門外に馬を繋ぐことになろう」
門外に馬を繋ぐは、家来になること。つまり自分の子孫は信長の器量にはとうてい及ばない。斎藤家は織田家に屈服することになるだろうと。将来を予言したわけです。
清州城へ
斎藤道三の後ろ盾を得た信長は、尾張の平定を進めました。次々と敵対勢力を撃破していきます。
そんな折。
清洲城は織田信友が城主、坂井大膳が補佐官を務めていました。この坂井大膳が、織田信長の叔父・織田信光に頼んできます。
「城を守る者がいません。不用心な限りです。
どうか信光さま、信友さまとともに清洲城に入り、
城を守ってくだされ」
「しめしめ。最高の話が来た」
織田信光は胸に悪い考えを秘めて、甥である織田信長に言います。
「というわけで、清洲の城を乗っ取ることが、できそうです。
見事乗っ取れたら、清洲城をあなたに差し上げます。
そのかわり、於多井川(おたいがわ)より南の土地を私にください」
「うむ。よかろう…」
このような秘密協定が、織田信光と織田信長との間に交わさていました。
天文24年(1555)4月19日、
織田信光は守山城を出て、清洲城の南櫓に入ります。
「けして城を乗っ取るようなことはしないから、安心されよ」
という旨を、起請文にしたためてまで、いました。
翌20日。
坂井大膳が南櫓に織田信光を歓迎しようと行って見ると、
「む…何だこれは」
警護の武士が物々しく、目つきも殺気立った感じでした。
「さては、城を奪おうという考えか!
ああ俺は何と酷いヤツを招き入れてしまったのか」
そこで坂井大膳は。
すべて放り出して、今川義元のもとに、亡命してしまいました。
わあーーーわあーーーー
すぐに始まる、織田信光による城攻め。
「無、無念じゃ…」
ずぶっ。
城主織田信友は追い詰められて、自害します。清洲城を手に入れた織田信光は当初の話通り、甥である織田信長に清洲城を引き渡し、自分は那古屋城に移りました。
「どうですか。見ましたか。私の見事な、兵法の冴えを」
そんなこと言って織田信光は調子に乗ってましたが、ほどなく死んでしまいました。
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