毛利元就(十二) 三本の矢
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大内攻め
厳島合戦に陶晴賢を滅ぼした後も、毛利元就の勢いは止まりませんでした。すぐさま山口攻略に乗り出します。もはや飾りものの主君・大内晴英を補佐する陶晴賢はいない。ならば今度は晴英をと、軍勢を率いて山口を攻めます。
2年後の弘治3年(1557)4月、大内晴英を山口の長福院にて、自害に追い込みました。
大内氏は百済の聖明王(せいめいおう)の子・琳聖太子(りんしょうたいし)の子孫と言われ、南北朝時代以降、中国地方西部に大勢力を築きました。
応仁の乱以降、雪舟や宗祇といった文化人を多く迎え入れ、大内文化・山口文化を築き上げ、文武両道の西国の王者と言われましたが、毛利元就によって、このような形で滅ぼされましまったのは心痛いことでした。
それにしても嫡男の隆元は、かつて山口に送られ、大内文化の薫陶をどっぷりと受け、大内の家臣から妻をも迎えた嫡男の隆元は、父元就が大内を滅ぼしたことについて、どう思ったでしょうか。
とにかく毛利元就は、備後・安芸・周防・長門・石見の一部に至る広大な領土を手中に収めました。
安芸の弱小豪族にすぎなかった毛利氏は、今や出雲の尼子氏と並ぶ大勢力に成長していました。
「成し遂げたぞ。ついに…」
隠居騒ぎ
よほど安心したのでしょうか。毛利元就は隠居すると言い出します。嫡男隆元は猛反発します。
「隠居!とんでもない!私に毛利家を継げとおっしゃるのですか!
無理です!私は凡庸な人間です!備後安芸だけでも手に余るのに!
その上周防長門まで!私如きに治められるはずがございません。
毛利家は父上がいらっしゃればこそ!私が継げば毛利家はおしまいです」
「落ち着け隆元」
「これが落ち着いていられますか!
私は、無能な二代目として歴史に名を残しとうはございませぬ~」
しまいに隆元はこんなことを言い出します。
「私か死ねば、父は思い直してくださるだろう!
そうだ!死をもって父を諫めるのだ!
隠居はしないでください!隠居はしないでください父上!」
「はあ~困った奴じゃ…わかったわかった。隠居といっても、
吉田郡山城からお前の働きを後見する。それに、
元春と隆景も、お前を支えてくれる。
少しは自信をつけろ」
「は、はあ…そ、そうですか…」
偉大すぎる父・元就に比べれば確かに毛利隆元は凡庸な人物でした。しかし、己の凡庸さを十分に自覚していたという点においては、毛利隆元は非凡な人物であったと言えるかもしれません。
三本の矢
「それにしても隆元のあの頼りなさ…
頭の痛い問題じゃわい。それに…確かに
毛利家は大きくなりすぎた。
備後・安芸・周防・長門…
この広い領土を隆元一人に任せるというのも、
ちと荷が重すぎるやもしれぬ」
「かくなる上は、隆元一人にゆだねるのではない。
元春が、隆景が、共に吉川家と小早川家をにない、
毛利を支える…毛利両川か。なるほど。毛利両川。
…そういう体制を築いていかねばならんな」
そこで毛利元就は、隆元、元春、隆景の三人に十四箇条からなる教訓状を与えます。三子教訓状です。
その十四箇条の中で毛利元就は、毛利・吉川・小早川それぞれが手に手を取り合い、協力しあって国を支えていくように、繰り返し説いています。有名な「あの」エピソードは、この三子教訓状の内容を元に、わかりやすいお話として伝えられたものです。
「ここに一本の矢がある」
「隆元、この矢を折ってみろ」
「簡単です」
ポキン。
「では三本の矢を一つに束ねると、どうかな?」
「ぐぬぬ…」
「これは…」
「なかかな折れませんな」
「わかったか!一本の矢は簡単に折れるが、三本束になれば簡単には折れぬ。そのように、お前たちも兄弟三人助け合い、毛利・吉川・小早川三家で支え合っていくのじゃ。わかったな」
九州・大友攻め
隠居したとはいえ、毛利元就の野心は留まるところを知りませんでした。永禄元年(1558)、九州の大友宗麟と、出雲の尼子晴久に目が向きます。九州には三男小早川隆景を差し向け、門司城の大内晴英を攻撃させます。貿易港博多は、どうしても手に入れたいところでした。
「なに!小早川が大内晴英に!
おのれ毛利元就!あの男との約定など信じていたのがバカだった」
29歳の大友宗麟は地団太を踏みます。前に滅ぼされた山口の大内晴英は大友宗麟の弟でした。毛利元就が大内晴英を攻撃するにあたって、兄として大友宗麟は手を出さぬ。そのかわり、九州は攻撃してくれるなと、毛利元就との間に約定を結んであったのです。その約定を一方的に破棄して、毛利元就は九州を攻撃にかかったのでした。
出雲・尼子攻め
一方、出雲の尼子氏攻略には、次男吉川元春を当たらせます。出雲攻略の足がかりとして石見東部に侵攻。尼子氏のドル箱である石見銀山の興亡は熾烈をきわめました。石見銀山を毛利が握るのか?尼子が握るのかによって勝敗が決します。だからこそ熾烈でした。
長引く大友・毛利・尼子の争いを見て、将軍足利義輝は、毛利と尼子の間に和議を持ちかけます。
「そろそろ仲良くしたらどうじゃ」と。
この頃足利義輝は、すっかり地に落ちていた足利将軍家の権威を回復させるため、各地で争っている守護大名たちに和議を持ち掛け、その調停役を買って出ていたのでした。
しかし毛利元就はなかなか尼子との争いをやめません。とはいえ形の上では将軍を立てて、歩み寄るそぶりも見せます。
その間、出雲では尼子晴久が亡くなり、息子の義久が家督を継ぎました。その頃、またも将軍足利義輝より和睦のすすめがあります。
「毛利と尼子は長年にわたって争い続けている。しかし代替わりもしたことだし、このへんで仲良くしてはどうか?」
「ううむ…そこまで言わるなら」
毛利元就は、石見の戦いには手を出さないという条件で、尼子義久と和睦します。もちろんこれは、時間かせぎにすぎませんでした。石見攻略を終えた後には、約束をやぶってすぐに尼子を攻め滅ぼすつもりでした。
毛利元元就は石見を平定し石見銀山を手に入れると、一方的に約定を破棄。1万5000の大軍を率いて出雲に侵攻します。
若き当主・尼子義久は、
「毛利元就め!裏切り負ったな!どこまで卑怯者なのか!」
などと叫んだかわかりませんが、このままではやられる一方。急きょ、豊前の大友宗麟に救援を求めます。
「よしきた!」
大友宗麟、北九州へ侵攻し、毛利の背後を脅かします。
隆元の死
翌永禄6年(1563)8月、毛利元就にとって思いがけない不幸が襲います。
「なに!隆元が…!!」
長男・隆元が亡くなったのです。享年41。突然の死でした。食中毒であったと言われますが…詳細は不明です。遺体は吉田郡山城で荼毘に付されました。
毛利隆元墓所
毛利元就は出雲の前線基地・荒隈(あらわい)城で隆元の死を知りました。
荒隈城"
「おおおおお……隆元!なぜじゃああ!!」
毛利元就の落胆は、たいへんなものでした。敵に対しては容赦のない権謀術数を駆使し、卑怯な裏切りも辞さない毛利元就でしたが、家族のつながりを誰よりも大切にした人物でもありました。「三本の矢」のエピソードに象徴されるように、毛利家の結束はきわめて固いものでした。
そのうちの一本の矢が、こつぜんと姿を消したのでした。
「わしはもう、出家する」
元就は、そのようなことも言い始めます。
「父上、お気を確かに持ってください!
まだ元春がおります。隆景もおります」
「そうです父上、出雲攻略は、
まだ始まったばかりです!兄上の弔いのためらにも、
出雲攻略を!!」
「隆元の弔い合戦…か…。そうだな」
次回「毛利元就(十三) 第二次月山富田城合戦」に続きます。