毛利元就(十一) 厳島の合戦
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毛利軍 出撃
翌9月30日、毛利元就は全軍を二手に分けて厳島への攻撃を開始します。作戦はこうです。
毛利元就・隆元らの率いる本体は、地御前(じのごぜ)を出発し、宮尾城東の包ヶ浦(つつみがうら)から上陸。塔ノ丘浦山の博奕尾(ばくちお)から陶晴賢に攻撃をしかける。
一方、小早川隆景を大将とする別動隊は敵の目を避けつつ大野瀬戸(おおのせと)を迂回し、厳島神社正面の有ノ浦から上陸。
厳島神社
本体と連携を取りながら宮尾城を包囲する陶晴賢軍を両面から包囲殲滅。
また村上武吉・村上通康ら村上水軍は瀬戸内海を封鎖し、陶晴賢軍を厳島に孤立させ、本国
周防との連携を絶つ役目を負っていました。
ところが、出発を予定していた午後6時頃になって、
ぽつぽつぽつ…どざーーー
激しい雨となりました。
「殿!これでは海を渡れません!!」
「何を言うか。今日は最上の吉日ぞ。雨が降るのも吉のしるしじゃ!!」
毛利元就は断固、厳島渡航を決行します。
ざばーーん、ざばざばざばざーー
嵐の中、毛利元就の本隊は海を渡り、宮尾城東方の包ヶ浦に上陸。
包ヶ浦から宮尾城は博奕尾(ばくちお)の峻険を隔ててわずか3キロの距離です。
「船はぜんぶ二日市へ返せ」
「殿!それでは帰ることができなくなります!」
「退路を断ってこそ、兵たちは必死の思いで戦う。結果、活路が開けるのじゃ」
「なるほど、背水の陣ですか!」
こうして船を返してしまうと、毛利元就の本体は吉川元春の吉川勢を先頭にして、博奕尾の嶺を登り、陶晴賢の本陣を目指します。
一方、
小早川隆景率いる別動隊は大野瀬戸(おおのせと)を大きく迂回し、厳島神社正面の有ノ浦に漕ぎ寄せます。この時、小早川隆景は、村上武良らの村上水軍を沖に停泊させ、小早川船団を率いて陸地に近づくと、陶晴賢方の大内水軍が所せましとひしめいていました。
「この数では敵・味方の区別などつきません。敵中堂々押し通りましょう」
「うむ。余もそれを考えていた」
小早川隆景の船が陶晴賢の船団に声をかけます。
「われわれは、筑前より加勢に参りました宗像(むなかた)・秋月(あきづき)・千手(せんじゅ)の者でございます。通してくだされ」
「おおご加勢ですか。これはご苦労でござった。ささお通りくだされ」
すーーっと周りの船は道を開けて、その中を堂々と小早川の船団は押し通って上陸することができた、という話です。
厳島の合戦
弘治元年(1555)10月1日早暁。
毛利元就の本隊は、塔ノ峰の上から眼下に、陶晴賢の本陣を見ます。
「かかれーーーッ!!」
ワアーーーーッ
いっせいに崖を駆け下り、陶晴賢本陣に襲い掛かる毛利元就本隊。
「なっ!なんだ!何が起こったのだ!?」
背後から鬨の声をきいて混乱する陶晴賢軍。
さらに!
ワアーーーーッ
あちらの嶺からも!
小早川隆景の別動隊が、大挙して駆け下りてきます。
「わ、わああーーーっ、どうなっているんだああああああ!!」
狭い島内にひしめく二万の兵は、身動きも取れず、何が起こったかもわからず、散々に打ち破られます。
また厳島神社の社前でも、
陶晴賢軍は毛利元就軍にさんざんに打ち破られ、厳島神社の玉垣は、血に染まりました。陶軍自慢の鉄砲隊も、昨夜の雨で鉄砲が濡れており、まったく使い物になりませんでした。
また海上では村上水軍が、大内水軍に
どかーーーっ、
襲い掛かり、
ひゅんひゅんひゅん
ずば、ずば、
ぎゃああ、ひいいい
斬り殺し、討ち殺しました。
勝負はごく短期間で決しました。弘治元年(1555)10月1日厳島の合戦。
戦国史上、これほど成功した奇襲作戦も、ほかに例を見ません。
陶晴賢の最期
「ひいいい、なぜこんなことに…毛利元就め…!!」
陶晴賢わずかな供回りと西へ、西へと逃げていき、大元浦(だいもとうら)に至り、船に乗ろうとしますが…船が無い!
船は大半が村上水軍によって撃破され、残った者も勝手に周防に逃げ反っていました。そこで、三浦房清とともに更に西の大江浦(おおえうら)を目指して逃げようとしてた所、
ワアーーーッ
背後から、小早川隆景率いる小早川勢が襲い掛かってきました。
「それがしが殿を務めます!早く、大江浦へ!」
「ぐぬぬ…、すまぬ」
キン、カン、キン、ズバァ
ぐはあああっ
三浦房清は主君陶晴賢を逃すため、孤軍奮戦しますが、多勢に無勢。小早川勢に討ち取られてしまいます。
陶晴賢はさらに西へ逃げて大江浦(おおえうら)に至りますが、そこにもやはり船はありませんでした。
「もはやどうにもならぬ…」
観念した陶晴賢は砂浜に座り込み、西に向かい手を合わせ、念仏三篇唱えて、自ら腹かっ切って、味方の兵士に介錯させ、ついに自害しました。享年35。
厳島合戦によって毛利軍が討ち取った首の数は4700余り、生け捕り3000余人にのぼったと言われます。
「ああ…神聖な厳島神社を血で汚してしまった…」
戦後、毛利元就は各所に横たわる死体をすべて片づけ、厳島神社の殿社をきれいに清掃し、敵味方の討たれた者たちの霊を慰めるための神楽を奉納しました。
陶晴賢の首は後日発見され、桜尾城にて毛利元就は陶晴賢の首実検を行います。首をキッとにらまえ毛利元就は、
「大内家塁代の家臣でありながら主君を亡ぼし、八逆罪を犯した。よって天誅が下ったのだ。文句があるか!!」
ピシッ、ピシッ、ピシッ
手に持った鞭を三度ふるったと伝えられます。その後、毛利元就は陶晴賢の首を近隣の洞雲寺(とううんじ。広島県廿日市市)に移し、石塔を立てて陶晴賢を供養しました。
次回「毛利元就(十二) 三本の矢」に続きます。