毛利元就(十) 村上水軍

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安芸平定

天文23年(1554)5月12日、毛利元就は、隆元、元晴、隆景、熊谷信直ら3000騎を率いて、吉田郡山城を出陣。大内方の佐東銀山城(さとうかなやまじょう)の城主を説得し、戦わずして開城させます。

ついで安芸・周防の陸の交通の要衝である桜尾城(さくらおじょう)を奪取。ついで海の要衝である厳島を奪取。特に厳島北東の要害山に立つ宮尾城は戦略上、重要な拠点でした。

毛利元就はこれらの拠点を手に入れるにあたり、一滴も血を流さず、調略によって開城させました。しかもこれらは5月12日、1日のうちに行われました。神業といっていいスピードです。

こうして毛利元就は来る陶晴賢との正面決戦に向けて、着実に駒を進めていきました。

折敷畑山(おしきばたやま)合戦

「なに!毛利・小早川が挙兵!?」

知らせを受けた陶晴賢は怒髪天を衝く大激怒です。

「なんたる悪辣!当家の重恩を蒙りながら…許しがたい!猛悪無道である!!」

猛悪無道…最低の酷いヤツだと陶晴賢は毛利元就をそう罵ったといいます。

陶晴賢は天文23年(1554)6月、先遣隊として宮川房長6000名を安芸へ派遣します。その攻撃目標は、陸の桜尾城と、海の厳島。やがて宮川房長率いる先遣隊は、桜尾城北西の折敷畑山(おしきばたやま。広島県廿日市市)に陣を取り、毛利方3000・宮川方6000は向かい合い、山麓西方の明石口で激突します。

わあーーーっ

「陶晴賢を討ち取れーーーッ」
「毛利元就を攻め滅ぼせーーーッ」

毛利方・宮川方。双方、攻めに攻めますが、毛利方の勢いがやや強く、あそこここに宮川方を打ち破り、ついに敵の大将・宮川房長を打ち取ります。

これぞ、厳島合戦の前哨戦といわれる、折敷畑山(おしきばたやま)合戦。6月5日のことでした。

「なに!宮川房長が毛利元就にやられた!?くっ…まずい」

報告を受けた陶晴賢はすばやく動きます。交戦中の吉見正頼と和睦し、本国山口に帰還。

ついで自ら二万の兵を率いて、岩国永興寺に進軍します。

桂元澄 反間の計

またこのような話も伝わっています。

桜尾城城代・桂元澄は、敵である陶晴賢方に密書を送ります。

「毛利元就は私の策を入れず、
私に辱めを加えました。もう毛利元就の下では働けません。
どうか陶軍に加わらせてください。
毛利元就は厳島を攻められれば出てきましょう。
陶軍が厳島を攻撃すれば、私は陸地から火を起こし、相呼応します」

こういう密書を送り、陶晴賢はまんまと騙されて、厳島におびき出されたという話が軍記物には記されています。

毛利元就の謀略家としての面を強調する、いわばキャラを立てるためのエピソードであり、信憑性は薄いです。

偽情報

また毛利元就・隆元父子は、陶晴賢方の重臣・江良房栄(えらふさひで)を味方に引き入れようと工作します。300貫の所領で釣ろうとしましたが、

「もうちょっと色つけてください」

なんてことを言い出したので、毛利隆元は「なんて図々しいヤツ」怒り狂って、方針を変えました。今度は一転して、江良房栄が毛利元就に内通しているという噂を山口周辺にばらまきます。

「なにぃ、江良房栄が内通?けしからん!!」

陶晴賢は江良房栄を斬りました。毛利父子、このような離反工作もしたたかに行っていたわけです。

村上水軍との交渉

陶晴賢との直接対決に先立つ5月初旬から、毛利元就は瀬戸内海に大勢力を擁する村上水軍との交渉を続けていました。

交渉役の乃美宗勝は(のみむねかつ)、村上武吉(むらかみたけよし)のもとに赴きます。すると、村上武吉は、

「援軍を出してもいいが、神聖な厳島神社の社前に丸一日も船を懸け置くことは難しい」

そう言ったところ、乃美宗勝は、

「大丈夫です。援軍さえ出してくれれば、船を厳島神社の社前に懸け置く必要はありません」

「ほう。一日もかけず勝てるというのか。面白え。このケンカ、乗った」

…そんな話が伝えられています。

こうして、村上水軍は毛利元就に味方することを約束しました。

陶晴賢軍の厳島到着

弘治元年(1555)9月、陶晴賢は500艘の大内船団と、2万とも3万ともいわれる軍勢を率いて岩国の今津・室木浜より海を渡り、翌日、厳島神社の北西の大元浦(おおもとうら)より上陸。宮尾城南西の塔ノ丘に陣を取り、宮尾城を厳重に包囲します。

宮尾城
宮尾城

宮尾城は三方を海に囲まれた岬に立つ山城です。陶晴賢軍は宮尾城を包囲したものの、城兵の抵抗思いのほかに激しく、手こずりました。そこで陶晴賢は、宮尾城の水源を絶ちますが、折からの大雨で、攻めあぐねていました。

「なにッ宮尾城が!?」

吉田郡山城で、宮尾城が包囲されているという知らせを受けた毛利元就は、

「こうしてはおれぬ」

自ら馬上の人となり救援に赴きます。吉田郡山城を出陣すると、まず桜尾城東方の草津城に入ります。

草津城に入った毛利元就は先遣隊として熊谷信直に5、60艘の船を与え、宮尾城救援に向かわせます。

「援軍だ、援軍が来たぞーー!」

熊谷信直の到着によって、宮尾城の守りを固めていた毛利方の兵は、大いに士気上がります。

村上水軍の到着

毛利元就は厳島の対岸で、ジリジリ焦っていました。

「ええい。村上水軍はまだか」

三男小早川隆景の縁で小早川水軍の協力を得ていましたが、村上水軍の到着が遅れていました。陶晴賢も村上水軍に対し、自分たちに味方するように調略をしかけていたのです。

「このままでは宮尾城は落ちる。事は一刻を争うのだ。
村上水軍が来ないなら、小早川水軍だけで出撃すべきだ」

そこで毛利元就は草津城から西南12キロの地御前(じのごぜ)へ陣を移します。

元就や隆元たちが軍議を行っていた所、海の向こうに丸に上の字の旗を掲げた、無数の船影があらわれました。

「来たッ!村上水軍だ!!」

ワアーーーッ

毛利軍は上も下も、いっせいに喜びの声を上げます。

「ようやく…ようやく来たくれた」

さすがの毛利元就もこの時は安堵のあまり、へたへたと倒れ込みました。これが9月29日のこと。

次回「毛利元就(十一) 厳島の合戦」に続きます。

解説:左大臣光永