毛利元就(四) 家督を継ぐ
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毛利元就 家督を継ぐ
鏡山城攻略直後の大永3年(1523)7月、毛利家当主・幸松丸が9歳の若さで亡くなってしまったのです。
9歳で跡取りはいませんので、誰を後継者にするかで毛利家はもめます。
「いっそ、尼子から養子を迎えてはいかがですか」
「いやいや、それでは、尼子に毛利家を乗っ取られてしまう。
それよりも…誰もがわかっておるであろう。元就さまこそ、今まで実質的な
毛利の当主であったではないか」
「そうだ!元就さまに毛利の家督をついでいただこう」
「元就さまこそ、よき器量!前の有田城、鏡山城の合戦での指揮を見ても、それは明らか。元就さまこそ毛利の家督を継ぐにふさわしい!」
こうして毛利家重臣たちは、毛利元就のもとにどうか家督をついでくださいと訴えますが、毛利元就は
「そうは言うが…、今の毛利家は大変な状況であるぞ。
幸松丸さま亡き今、尼子も大内も毛利を取り込もうと、
狙ってくるであろう。こんな中、毛利家内部で争っていては
目も当てられぬ。毛利家が一致団結せねば、
この難局を乗り越えることはできぬのだ。お前たち、
ほんとうにワシに従ってくれるのか?」
「これをご覧ください。毛利家重臣15名による署名でございます。
元就さまに、固く忠節を誓うと」
「わかった…そこまで言うなら、受けようではないか」
こうして、大永3年(1523)8月、元就は正式に毛利の家督を継ぎ、吉田郡山城に入ります。その際、毛利元就は連歌の発句を詠みました。
毛利の家 鷲の羽(は)を継ぐ 脇柱(わきばしら)
鷲の羽は毛利の家紋。それを脇柱…次男であり本来継ぐべきでない私が継いだ。とにかく不思議な運命で毛利家の家督を継ぐことになったが、がんばるぞという意気込みが感じられます。
「今後は脇柱ではなく大黒柱として、毛利家を支えてくだされ。
われら家臣一同、お願い申し上げます」
反対派の動き
しかし毛利元就が毛利の家督を継ぐことに反対の勢力もありました。
大栄4年(1524)、毛利家重臣渡辺勝(すぐる)・坂広秀(さかひろひで)は、尼子家家老・亀井秀綱(かめいひでつな)と密かに会って、話していました。
亀井秀綱が渡辺勝(すぐる)・坂広秀(さかひろひで)両名に言います。
「尼子経久さまは相合元綱(あいおうもとつな)殿を高く評価され、相合元綱殿が毛利の家督を継げば、長く毛利との付き合いを続けたいとおっしゃっている。そのためには…渡辺殿、坂殿、おわかりですな」
「はっ…!元就の家督相続を潰し、相合元綱さまを当主にしなくてはなりませんな」
「その通り。相合元綱殿が当主となったあかつきには…尼子と毛利の結びつきは末永く磐石。くれぐれも、渡辺殿、坂殿、頼みましたぞ」
このような計画を話し合っていました。
「そうか、反対する者がおるか。気はすすまぬが…やらねばなるまい」
先手を打ったのは毛利元就でした。
「相合元綱に謀反の疑いあり!
攻め滅ぼせ!」
わあーーーっ
毛利元就の命を受けた志道広良は相合元綱の立てこもる船山(ふなやま)城を攻撃。
「敵襲です!」
「なに敵?毛利元就だと?ぐぬぬ読まれておったか、かくなる上は!」
ばっと相合元綱は武具をひっつかみ、自ら城外に打って出て、志道広良率いる毛利軍を迎え撃ちます。
「この相合元綱。今義経とまで言われた男。ただではやられぬ」
「まともに戦うな!遠巻きに射よ!」
志道広良率いる毛利軍は相合元綱と距離を離し、矢を射ました。
ずばずばずばずば…
「ぐ、ぐぶう…」
さしもの今義経、相合元網もこうして討ち取られました。
さらに毛利元就は、この企てに加担した渡辺勝・坂広秀のもとに刺客を送り、
ざしゅっ
どかあっ
闇に葬りました。
大内義興の動き
さて毛利元就が毛利家の地固めに苦心していた頃、山口では大内義興が動き出しました。
「安芸の情勢が不安定な今こそ、毛利と尼子を潰し、奪われた鏡山城を奪取すべき時」
大永4年(1524)5月、大内義興は嫡男義隆とともに総勢2500で山口を出発します。
大内義興は永興寺(山口県岩国市)に着陣すると、大内本陣は1万をもって桜尾城(さくらおじょう)へ。嫡男の義隆に1万5000をもって銀山城(かねやまじょう)へ。全軍を二手に分けて進撃します。
大内義興・義隆、安芸へ侵攻
次回「毛利元就(五) 大内義興 来襲」に続きます。