徳川家康(二十四) 大坂冬の陣
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大名の協力得られず
「大変なことになった!とにかく味方を集めなければ」
秀頼はあわてて各地の大名に協力を頼みます。しかし、大名は誰も秀頼に味方しませんでした。ただの一人もです!
薩摩の島津家久には正宗の脇差を送ってまで協力を呼びかけました。しかし島津家久は「島津家は関ケ原で西軍方として戦い、故太閤への忠義は終了しています。今は徳川の恩を受けており、背くことはできません」そう言って正宗の脇差を返してきました。
福島正則のもとにも使者を立てましたが、正則は使者に会いもせず、手紙も受け取らず「無益な戦を起こしたことだ。秀頼公には大坂城で朽ち果てるしかあるまいと伝えてくれ」そう伝言しました。
故太閤子飼いの福島正則にしてこの態度でしたので、他は推して知るべしでした。大名たちにとっては現在俸禄を与えてくれる方こそが主人なのであって、それは秀頼ではなく、家康・秀忠でした。結局、秀頼は一人の大名の協力も得られませんでした。
しかし、関ヶ原でお家取り潰しとなった浪人たちがいました。明石全登(てるずみ・ぜんとう)、後藤又兵衛、真田信繁(幸村)、長曽我部盛親などです。彼らは、徳川の政権に反発し敵意を抱いていましたので、ここぞと豊臣方につきました。結局、10万ほどの浪人が集まりました。
大坂冬の陣
開戦
慶長19年(1614)10月1日、駿府城の徳川家康は、大坂城への攻撃を命じ、諸国の大名にこれを通達します。
「正純、これから忙しゅうなるぞ」
「殿、うれしそうござりますな」
「ふおっふおっふおっ、いくつになっても。いや、戦は好きであるのう」
本田正純はこの時、家康が「若やいで」見えたと。昨夜は気分が悪かったが開戦となった途端、元気になったと。後に藤堂高虎に語っています
徳川家康この年73歳。年は取っても「東海一の弓取り」と呼ばれた、その武勇は残っていました。血が騒いだんでしょうね。また若く前途有望な秀頼を潰すことへのサディスティクな喜びも、感じていたかもしれません。
秀忠が関ヶ原の雪辱をはらすとばかりに駿府に使者を送ってきました。
「私が大坂城を攻めますから父上は駿府で帷幕の奥深くいらしてください」
しかし久々の戦に血が騒ぐ家康に、それはできない相談でした。
「わしが先に進むからお前は後からついてこい」
そう言われると、秀忠は従う他ありませんでした。
10月11日、家康は駿府を出発します。途中鷹狩などしながら悠々とした行軍でした。
事ここに到り仰天した秀頼は、伊達政宗に取り成しを頼みます。
「私は断じて家康・秀忠に敵意など無い。どうか政宗、そのほうから取りなしてほしい」
しかし政宗の答えは非情なものでした。
「どうして私が家康公・秀忠公の恩義を忘れ、大坂方に与しましょうか」
10月23日、家康、二条城に到着。同日、秀忠が江戸を出発しました。
秀忠は関ヶ原の時、真田の守る上田城攻略に手こずり、天下分け目の合戦に参加できませんでした。戦後、その事で父家康の怒りを買いました。それがよほどトラウマになってたんでしょう。今回、秀忠は急ぎすぎるくらいに急いでいました。そこで家康は秀忠のもとに使いを立てて、「何万という大軍が動いているのだ。もっとゆっくり進め」と助言しました。
大坂城攻撃
11月15日、家康と、後から合流した秀忠あわせて京都を出発します。総勢20万とも言われる大軍で大坂城を目指します。
11月19日、木津川口にて徳川方・豊臣方、最初の戦闘が行われました。ついで鴫野・今福で。博労淵(ばくろうぶち)、野田・福島で、戦闘が行われます。
12月1日。家康・秀忠軍は天満(てんま)・船場(せんば)・高麗橋(こうらいばし)と迫り、大坂城南西6キロの茶臼山(ちゃうすやま)に本陣を置いて、大坂城包囲網を狭めて行きました。また戦をしかける一方、家康は大坂方との和平交渉を並行して進めていました。
「いったいいつ攻撃するんだ!」
「もう大坂城は見えてるんだぞ!」
いっこうに攻撃命令が出ないので、血気にはやる者たちは不満をたぎらせていました。そんな中、
12月3日。家康方の松平忠直(まつだいら ただなお)・前田利常(まえだ としつね)・井伊直孝(いい なおたか)が、真田幸村の守る出城・真田丸に攻撃を仕掛けます。
「攻めろーーーッ」
いっせいに駆け出していく家康方しかし。
ターンン、ターーン、タターーン
ぐはっ。ぐぎゃあ。
城に取りつく空堀の中に鉄砲隊が隠れており、一斉射撃で総崩れとなります。
12月4日。
秀忠が岡山に着陣しました。秀忠は家康が講和を考えていることを知り、「講和などありえない話です。一斉攻撃でケリをつけましょう」と提案します。
しかし家康は
「ならぬ」
秀忠の意見を容れませんでした。
「しかし…」
秀忠はなおも不満そうでしたが、
「まあまあ、ここは…」
本田正純が秀忠をなだめて、ようやく秀忠はしぶしぶながら、引き下がりました。
家康は和平交渉を進めるのに並行して、大坂城への砲撃を激しくしていきました。また夜中に三度、鬨の声を挙げ、鉄砲を撃ち、城兵の不眠を誘いました。鬨の声は京都まで響いたと記録されます。
12月9日。かねてより工事していた淀川の堰き止めが完成しました。これにより淀川は中津川に流れ込み、大坂城の外堀であった天満川は干上がりました。城の守りは、とたんに心細いことになっていきました。
また、甲斐や佐渡の鉱夫に命じて大坂城の南から場内に通じる坑道を掘らせます。
12月15日。豊臣方から和議の申し出があります。その条件は、「淀殿を人質として出す代わりに、浪人たちに禄を与えてやってくれ」というものでした。「ほう。功績も立てない者に禄を与えるなど、聞いたこともない」家康はそう言って、講和を拒みました。なかなかに強気です。
12月16日。家康は大坂城への砲撃をいっそう激しくします。ドゴーン…ドゴーン…多くは城まで届きませんでしたが、その中の一発が偶然にも天守閣に命中。
「ぎゃああああああああああ」
この砲撃で淀殿つきの侍女八人が死亡しました。
「な、何という…もうこんな怖いのは嫌じゃ!
講和!講和を!」
講和
淀殿の気持は一気に講和へと傾きました。さて大坂城には淀殿の妹・常高院がいました。そして家康軍には常高院の子・京極忠高がいました。ここに家康は講和の糸口を見ます。
12月18日、家康は常高院を京極忠高の陣に呼び、家康方からは愛妾・阿茶の局と本多正純を出して交渉させました。
翌19日、講和の条件がまとまりました。豊臣方が出した条件は、
・大坂城は本丸のみ残して二の丸・三の丸は取り壊す。惣構の南濠、西濠、東濠を埋める
・淀殿を人質にしない代わりに、織田有楽齋・大野治長から人質を出す
これに対して家康は、
・秀頼の身の安全と本領安堵
・城兵たちの罪は問わない
ということを約束しました。
こうして講和が成立すると、家康は大坂城を引き上げ二条城に戻り、ついで駿府に帰還しました。
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