大坂夏の陣・豊臣氏滅亡

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慶長19年(1614)12月。大坂冬の陣は終わりました。豊臣方は講和条件として、大坂城の濠を埋めること、大坂城本丸を残して他を破壊することなど、屈辱的な講和条件を受け入れました。

濠を埋める

講和成立の翌々日の12月21日から、徳川方から奉行が派遣され、諸大名の労働力を駆り出して大坂城の濠の埋め立てが始められました。しかし、この濠の埋め立てについて、豊臣方と徳川方の解釈はまったく違っていました。

「あ、ああっ、なぜ内濠まで埋める!
外濠だけという約束だったはずだ!」

「そう言われても我々は命令された通りやってるだけですので…」

豊臣方の抗議は無視され、どんどん埋め立ては進められ、とうとう内濠まで埋められてしまいました。大坂城は裸城となりました。

豊臣方は三の丸の外堀だけを埋めると考えていたのに対し、徳川方は本丸だけ残してあとは全部壊すと、解釈したのでした。家康得意のペテンでした。石田三成などが「古狸」と評した、家康の本領が発揮されたことでした。

大坂夏の陣

「おのれ家康の古狸ぶりよ」
「本丸以外ことごとく壊すとは!…なんたる狡猾」

大坂方の浪人たちは家康の仕打ちに怒りをつのらせ、ふたたび一触即発の空気になってきました。

元和元年(1615)3月12日、京都所司代板倉勝重が、駿府の徳川家康に報告してきます。豊臣方がふたたび浪人を集め武器を蓄え、戦の準備をしていますと!

豊臣方は大野治長を使者として駿府に遣わし、幕府に背くつもりなど無いと、弁明します。しかし家康は強気の条件を突きつけました。

「もし本当に敵意が無いのなら、その証として豊臣家は大坂城を出て大和か伊勢に移れ。さもなくば浪人たちを解散させ、もとの家臣だけにしろ」

「くっ…足元を見おって…」

無論、豊臣方としてはそんな条件に従えるはずはありませんでした。大坂城は故豊太閤の造って豊臣家のシンボルであり、豊臣家にとって大切な城でした。また前の大坂冬の陣で戦ってくれた浪人たちを追い出すなど、できようはずもありませんでした。

4月4日、家康は九男義直の婚儀のためであると称して駿府を出発。名古屋に向かいます。

翌5日、豊臣方の使者が駿府の徳川家康に、「提示された条件には従えない」と言ってきます。それに対して家康は「ならば是非も無い」と答えました。

4月10日、名古屋城到着。12日、義直の婚儀に参加。

4月18日、上洛。二条城に入ります。ここで家康は豊臣方に最後通告を出します。豊臣家は大坂城を出て大和か伊勢に移れ。さもなくば浪人たちを解散させ、もとの家臣だけにしろ。以前の条件をもう一度提示しました。もちろん豊臣方は受け入れるはずもありませんでした。

5月5日、家康は大坂城目指して京都を発ちます。大坂夏の陣の始まりです。出発に際し、家康は自軍に「三日ぶんの腰兵糧でよい」と命じたといいます。

戦闘は4月29日から5月7日にかけて行われます。京都~大坂間の各地で前哨戦が行われますが、おおかた豊臣方は破れ、徳川方は大坂城に迫ります。そうなると裸城にされた大坂城にはもはや防ぐ術はありませんでした。徳川方が次々と城内に乱入し、5月7日には城内に徳川方への内通者がいて台所で火をつけ、大坂城は落城しました。

燃え盛る炎が夜空を明るく照らし、その様子が京都からも見えたということです。

しかし豊臣方にも華々しい場面がありました。

5月7日。最終日の戦闘において、真田幸村が、

どかかどかかどかかどかか…

「家康、覚悟!」

ざしゅっ

「ひぃっ…」

茶臼山の家康本陣まで迫り、すんでの所で家康の首を打つまでに迫る一幕が伝えられています。鬼神の如き真田幸村の攻撃に、さしもの三河武士も算を散らして逃げ惑い、一時家康の周りがガラガラになり。この時ばかりは家康も死を覚悟したと伝えられます。

「真田日本一之兵」

「古今比類なき手柄、筆舌につくしがたし」

大坂方は幸村の働きを絶賛しました。

しかし。

真田幸村の働きも戦争の大局を変えるには至らず、幸村は討ち取られ(諸説あり)、5月7日夕刻には大坂方主力は全滅。天守から火が上がりました。

豊臣氏の滅亡

翌8日、千姫は家臣の導きで脱出します。秀頼と淀殿は天守閣の下の倉に隠れていましたが、8日の朝、自害しました。秀頼は享年23。淀殿は49歳くらいと思われます。こうして豊臣氏は滅亡しました。

5月23日、秀頼の嫡男でわずか8歳の国松が、六条河原で処刑されます。国松お付きの12歳の少年まで斬られました。

秀頼の娘(俗名不明)は捕らえられますが、家康の孫娘である千姫の養女となっていたために許され、北鎌倉の東慶寺に預けられました。後に東慶寺20代住持・天秀尼(てんしゅうに)となります。

長宗我部盛親への捜索は10年以上にわたって続けられました。慶安4年(1651年)由比正雪(ゆい しょうせつ)が江戸幕府に反乱する慶安事件が起こりますが、この時由比正雪の片腕であった丸橋忠弥(まるばし ちゅうや)は、盛親の息子・長宗我部盛澄だとも言われています。

家康の豊臣方への追求は熾烈を極めました。

京都から伏見まで18列の棚を作り、一列に千もの落人の首がさらされました。その中には豊臣方とは何の関係もなく殺された民衆の偽首も多数ありましたが。

「天下に支配者は徳川ただ一家。もし一大名が徳川に逆らえば、こうなるのだぞ」

家康はそれを、徹底してアピールしたのでした。徳川260年の平和は、こうした恐怖の上にも成り立ったものでした。

Sengoku_Ieyasu25
解説:左大臣光永