徳川家康(五) 三河の一向一揆
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三河の一向一揆
ようやく今川からの独立を果たして心機一転、乗り出した松平家康。そこへ。思わぬ敵が立ちふさがりました。
一向一揆です。
ことの発端は永禄6年(1563)家康の家臣が国内の反対勢力を討伐するために、つまり新たに戦するために浄土真宗寺院から食料を徴発しようとしたことでした。
「また戦か。いい加減にしろ」
「もうガマンできん」
ワッと立ち上がったのでした一向宗門徒が。
さて家康の家臣の中にも一向宗の門徒は多くいました。主君家康につくか?信仰を取るか?二者択一を迫られますが…多くは信仰よりも忠義を優先して、家康につきました。
一向宗側にまわった者も、家康に対して個人的な恩義は感じており、心のどこかにわだかまりを抱いていました。
鉢屋半之丞(はちやはんのじょう)という槍の名手は戦場で徳川方の武士を今まさに討ち取らんとした時、
「待て待てーーーッ」
家康自ら出馬してくると
「と…殿!殿と戦うなど、できませぬ!」
鉢屋半之丞あわてて逃げようとする。そこへ、家康方の武士が、
「待てい」
追いかけようとすると、
「勘違いすんな」
ずばっ
「殿だから逃げるのだ。お前ごときに逃げ出すわけがなかろう」
そう言って突き殺しました。
また別の武士は、一向宗門徒として一揆に加わったものの、主君家康が出て来ると
「もう私は地獄に堕ちても構いません」
武器を捨てて家康側に加わりました。
このように、家康の家臣たちはたとえ一揆側に廻っても家康に背くことに大きな罪悪感を抱いていました。しだいに一揆は追い詰められていきます。
家康としてもまだ三河一国の統一もなっていない中、一揆はさっさと終わらせたい所でした。
そこで家康は一揆側に有利な条件を出します。
「寺も僧ももとのままでよい
一揆側に廻った士卒は許す。
一揆の張本人の命は助ける」
…
「本当にこれでいいのか」
「だったら…」
一揆勢も折れました。
永禄7年(1564)2月、講和が結ばれます。
ところが。
講和成立後、家康は一向宗に改宗を命じます。そして寺を壊し一揆に加わった者の財産を没収しました。
「話が違う!」
「ペテンだ!!」
一向宗門徒たちは抗議しますが、家康は一切聞く耳を持ちませんでした。甘い言葉で講和を持ちかけて、一揆勢の気持が萎えた所で、話をひっくり返したのでした。
時に家康23歳。後に石田三成らをして「古狸」と言わしめる家康の食えないペテン師ぶりは、こんな若い頃からすでに発揮されていたのです。
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