徳川家康(六) 三方ヶ原の合戦

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三河統一、徳川家康となる

その後、家康は東三河の今川勢力を撃破し、三河国内の反対勢力を鎮圧し、三河一国をほぼ平定しました。そして永禄9年(1566)暮、松平家康あらため徳川家康となり、正親町天皇より従五位下三河守の官位を下されました。

徳川の系図は公家の近衛前久から買いました。官位を授かるとなるとそれなりの系図が必要だったのです。系図によると徳川氏は清和源氏の新田氏の流れで、後に藤原氏にあらためています。これはいける。ハクをつけるにはじゅうぶんであるとして、家康はそれまでの松平を捨てて徳川家康となりました。自分は鎌倉幕府を倒した新田氏の子孫であるという設定にしたのです。

つまり、系図なんてもんはその程度のものでした。清和源氏とか新田氏とか藤原氏とか派手なことをいってますが、家康の祖先が実際どうだったのか?はなはだあやしいです。

浜松城へ

永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて都入りします。

同年、徳川家康は遠江今川領に侵攻。引馬(ひくま)城を落とします。翌12年5月、掛川城を攻撃して今川氏真を伊豆に追いやります。

そして翌元亀元年(1570)、家康は岡崎城を出て引馬城に移り、これを浜松城と改めます。以後、浜松城が家康の居城となります。岡崎城には12歳の嫡男、信康を置きました。

武田信玄、西上

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は上洛を目指して甲府を出陣します。いわゆる武田信玄の西上作戦の始まりです。

武田信玄の生涯最期の軍事行動となった、この西上作戦については、現在でも意見が分かれています。

何を目的としていたのか?

上洛して、足利将軍を補佐する立場から天下に号令することを考えていたのか?

あるいは、

遠江一国を切り取るための単なる局地戦だったのか?

いまだに結論が出でいません。

12月22日、武田軍25000は二股城を出発。徳川家康の拠点である浜松城に向けて移動を開始します。

浜松城には徳川家康がいました。

「次に信玄が狙ってくるのはこの浜松城。
もはや直接対決は避けられぬ」

徳川8000に織田の援軍3000が加わって11000。
対して武田方は北条の援軍とあわせて25000。

圧倒的に武田有利でした。

「かくなる上は籠城戦しかない」

徳川家康は浜松城に立てこもり、武田軍を迎え撃つ構えを取ります。

時に家康31歳。信玄52歳。

元亀3年(1572)12月22日、武田軍25000が浜松城城下に姿を現します。

しかし。

「どういうことだこれは!!」

武田軍は浜松城を無視して、浜松城城下をゆうぜんと通り過ぎ、北に進路を変え、三方ヶ原に抜けて行きました。

「おのれ信玄、浜松城を無視するか!待てい!!」

徳川家康には織田信長の援軍3000が来ていました。援軍を要請した手前、目の前を通過する敵を黙って見過ごしたとあっては、後々、信長との関係が悪化します。そういう判断もあり、徳川家康は打って出るしか、ありませんでした。

三方ケ原の合戦

「地の利はこちらにある。武田が祝田(ほうだ)の坂を下りた所で、背後を突くぞ!」

徳川軍は浜松城を出て、織田の援軍とともに鶴翼の陣を作って武田軍の背後から襲いかからんとします。

一方、武田軍は三方ヶ原北方の祝田(ほうだ)に向かっている所でした。

「やはり家康は出てきたか。…全軍反転!」

信玄は全軍を反転させ、

「かかれーーーッ」

魚鱗の構えをなして、徳川軍に襲いかかります。

もとより兵力は武田方が優勢。

兵力を温存していた武田方の部隊が次々に投入され、徳川方の鶴翼の陣はもろくも切り崩されていきます。

「ひ、ひいいいーーーっ、か、かなわぬ」

徳川家康はほうほうの態で浜松城に逃げ帰ります。

2時間ほどで戦は終わりました。武田軍の圧勝でした。

ワアァーーーーーッ

勝どきを上げる武田軍。

「ああ…おしまいだ…
今度こそ信玄は浜松城に攻めてくる。
そうなったら、もう…」

ビビりまくる徳川家康。

この時伝わっている有名な逸話があります。

「ひぃ、ひぃ、ひぃーー…ようやく浜松城に着いた。助かった!」

すっかり安心した家康。なんだかお尻のあたりが温かい。ん?ああっ…!!

「あっ!御屋形さま、それは…まさか…」

「お?いやいや、そんな、漏らすなんてするわけ無いだろう。
これは…ほら、あれだ。昼に食う焼き味噌だ。
勘違いするな!」

ほんとか嘘かわかりませんが、そういう話が伝わっています。

「とにかく、門を閉めましょう!」

「いや待て!閉めてはならぬ…開けっ放しにしておけ」

「は?」

「そして松明をたき、太鼓を叩きまくれ!」

ついに狂ったか、そう思いながらも家来たちは家康に命じられた通りにすると、やがて攻め寄せた武田方の軍勢は、

「ぬおっ!なんだこれは。門を開けっ放しにして、しかもこの、にぎやかさ。 何か策があるに違いない。深追いは危険!退け、退けーーーっ!」

退き上げていきました。

「見たか。これぞ、空城の計よ」

徳川家康、転んでもタダでは起きない男ではありました。

家康は三方ヶ原で負けた時の自分の情けない姿を肖像画に描かせ、後々まで自分を戒める材料としました。これはわりと信憑性の高い話です。

しかしここで武田軍は、不可解な行動に出ます。

浜松城は完全に無視して、三方ヶ原北方の刑部(おさかべ。静岡県浜松市)に移動。さらに不思議なことに、刑部から一歩も動かなくなりました。

「何を考えているのだ信玄は…」

困惑する徳川家康。

そのまま10日…20日…ついに年を越してしまいました。

信玄は病に犯されていました。その後東三河に侵攻するも、ついに西上は果たせず、甲府に引き返す途中の信州駒場(こまんば)で信玄は息を引き取りました。元亀4年(1573)4月12日。享年53。

解説:左大臣光永