豊臣秀吉(二十) 小田原攻め
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関東惣無事令
豊臣秀吉は徳川家康を従わせ、四国の長宗我部元親、九州の島津義久を下し、いよいよ天下統一にもう一歩というところまで来ていました。残るは関東の北条氏政・氏直父子。そして奥州の伊達政宗。どうにかしてこの両者を従わせねばならない。
さて秀吉は九州攻め(天正14年・1586年)以前の天正14年(1586)11月、関東に「関東惣無事」令を、翌12月、奥州に対して「奥両国惣無事令」を出しています(年号・日付には諸説あり)。
惣無事令。
すなわち、大名同士の争いは私の戦いであるから、やめろというものです。これからは関白である私秀吉が一切を仕切ると。お前ら、勝手に戦うなよと。
徳川家康による対北条交渉
また、秀吉は北条・伊達が上洛し、秀吉に膝を折ることを願っていました。そうすることによって、血を見ることなく天下が太平になると。たびたび使者を送り上洛するよう促します。
天正16年(1588)4月、秀吉は京都北野に築いた聚楽第(じゅらくてい)に、配下の大名を集め、後陽成(ごようぜい)天皇を招いて接待しました。秀吉の力を天下に示す、デモンストレーションでした。
しかし、聚楽第に北条氏政父子も伊達政宗も、あらわせませんでした。
「北条・伊達を上洛させねば秀吉の権威は立たぬ」
そう考えた秀吉は、徳川家康を交渉役として北条氏のもとに遣わします。
徳川家康の次女・督姫(とくひめ)は北条氏直に嫁いでおり、徳川は北条と同盟関係にありました。また、北条氏政の弟・氏規(うじのり)は、家康が今川氏の人質時代に、同じく北条氏から今川氏へ人質として預けられていましたので、家康と氏規は幼馴染でした。
そういうよしみから、秀吉は家康を対北条の説得役に任じたのでした。
「すみやかに上洛し、関白殿に拝謁なされよ。
もし上洛できぬというなら、氏直に嫁がせている私の娘は返していただく」
このような書状が、家康から北条氏に度々届けられました。
北条氏規の上洛
その激しい文面に、家康の本気を見た北条氏政。さすがにマズいと思ったのか、代理人として弟の氏規を上洛させます。氏規(うじのり)は、家康が今川氏の人質時代に、同じく北条氏から今川氏へ人質として預けられていましたので、家康と氏規は幼馴染でした。
こうして。
天正16年(1688)8月22日
北条氏規は上洛。秀吉に拝謁します。
「北条氏規殿、遠路ご苦労でござった」
「ははっ…」
「それにしても代理人とはな。余は当主の顔が直接見たかったのじゃが」
「それにつきまして。国元で真田との領土問題が解決しておりませんので、
それが片付くまでは当主上洛は無理かと」
「領土問題じゃと?そのようなことは関白である余が取り仕切る!
すみやかに北条の家老を上洛させい!」
その後も秀吉から関東にたびたび督促の使者が飛びました。さすがの北条氏政も、
「仕方ない…」
上洛に向けて傾いていきました。そのまま行けば北条氏政・氏直父子は上洛し、後北条氏は豊臣政権下に平和的に取り込まれたかもしれまん。もしかしたら徳川政権下でもどこかに領土を得て幕末まで生き延びたかもしれません。
しかし。
ここに一つの事件が起こりました。
名胡桃(なぐるみ)城奪取事件
利根川流域では、北条と真田が向かい合い、モメていました。
沼田城と名胡桃城
利根川東の沼田(ぬまた)城は北条氏の城で、城主は猪俣邦憲(いのまたくにのり)。
利根川西の名胡桃(なぐるみ)城は真田一族の城で、城主は鈴木主水(すずきもんど)。
しかし、真田と北条の境界は秀吉によって強引に決められたもので、不満を持っている者も多くありました。
そういう状況の中。
天正17年(1589)10月23日、沼田城主・猪俣邦憲の家臣たちが、いきなり名胡桃城を攻めて、城を奪ってしまいます。
「こんなことが許せるか!」
真田昌幸はすぐさま関白秀吉に事の次第を訴えます。
宣戦布告
「何度も上洛命令を拒んだ上に約定を違えるとは。もはや手加減は無用。
北条討つべし!」
秀吉は11月24日付で北条氏政・氏直父子に当てて、宣戦布告状を出します。徳川家康を通じて宣戦布告状は小田原に届けられました。この宣戦布告状は現在の小田原城に写しが展示されているので私も見てきました。よく整った文字の中に秀吉の静かな怨念がこもっているようで、底知れぬ恐ろしさを感じました。
「大変なことになった!」
北条氏直は慌てます。すぐさま上洛が遅れていることと、名胡桃城を奪ったことの弁明をしたため秀吉に届けますが…まったく弁明にもなっていない、急場しのぎの書状でした。
「もはや戦いは避けられぬ」
こうして秀吉は小田原攻めに乗り出しました。
さて秀吉が「関東惣無事令」を出して、私の戦いを禁じた。北条がそれに背いて勝手に戦をしたから、それを口実に秀吉は小田原攻めに乗り出した…
つまり、「関東惣無事令」じたいが北条を攻めるための口実であった、と昔は考えられていました。私も学校でそのように習った記憶があります。
だから、北条がいよいよ名胡桃城を攻めたと報告を受けた時、秀吉は飛び上がって喜んだろうなぁ…なんて妄想しました。
しかし最近では、必ずしもそうとは言えない。秀吉は本気で北条氏政父子を上洛させ、秀吉政権の中に平和的に取り込もうとしていたのではないか、という説も出ています。
つまり「関東惣無事令」は口実でなく、秀吉は本気で戦を避けようとしていた。平和を考えていたと。
どうなんでしょうかねえ…。
私は今年、小田原攻めの時に秀吉が築いた石垣山城に登ってきました。巨大にそびえる石垣を見ると、なんというか、秀吉の底知れぬ執念が伝わってくるようでした。
「できたら平和的に解決を…」なんてものではなく、秀吉は本気で、北条を潰しにかかったのかなと、あの石垣を見ていると、そう実感できました。
いったいどちらなのか?
秀吉は北条を最初から潰したくて、口実として関東惣無事令を出したのか?それとも、最初は平和を考えていて、北条が背いたのでやむなく討伐に乗り出したのか?…今後の研究に期待したいところです。
北条氏、小田原攻めに備える
北条氏政・氏直父子は、秀吉と交渉を続ける一方、最悪戦になった場合も想定して早くから準備を進めていました。
箱根路には山中(やまなか)城を、足柄路には足柄城を置く。これらが破られた場合、小田原城に籠城する、というプランでした。
最悪、小田原城に籠城する場合を考えて、小田原城と城下町をふくむ広大なエリアを、全長9キロにわたってぐるっと囲んだ土塁「惣構え」で囲みました。
天正18年 小田原攻め
北条氏政は万一籠城戦になっても、この堅牢な小田原城はぜったいに負けないという自信があったようです。なにしろ上杉謙信、ついで武田信玄の攻撃を生き延びた城です。今回も秀吉は籠城するはしても、結局は諦めて兵を退くしかないだろう。…氏政は本気でそう考えていたようです。
しかし。
上杉謙信・武田信玄の時代とはまったく状況が違っていました。
上杉も武田もせいぜい2万程度でした。一方秀吉は、22万の軍勢で小田原城を包囲しました。
また、秀吉は検地により兵農分離を進めていました。秀吉軍に従う兵士たちは専業の兵士です。農繁期だからといって国に帰らなくていいわけです。だから、いくらでも包囲が続けられます。
対して北条氏は昔ながらの百姓をかりだして戦させるやり方です。農繁期になったら引き返さなければりません。無制限に籠城できるわけでは、ありませんでした。
つまり、秀吉の率いる軍勢は、上杉謙信や武田信玄のそれとは規模も桁違い、性質もまったく異なるということです。
北条氏政は、こういったことに気づいていませんでした。
小田原 前哨戦
天正17年(1589)11月24日、豊臣秀吉は、小田原の北条氏政・氏直父子に宣戦布告状をつきつけました。
関東惣無事令…私の戦いを禁ずるとした約定に違えて北条氏が真田の城・名胡桃城(なぐるみ)を攻撃したことが、直接の理由でした。
とにかく、戦いは始まったのです!
翌天正18年(1590)2月10日、徳川家康は秀吉方の先鋒として3万の大軍を率いて駿府城を出発。
24日、駿府国境に近い長久保城(静岡県駿東郡長泉町)に入り、ここで秀吉の本隊を待ちます。
また、秀吉本隊が富士川を渡りやすいように舟橋をかけることも家康隊に与えられた任務でした。
3月1日、秀吉は3万2千の大軍を率いて京都の聚楽第(じゅらくてい)を出陣。
3月27日、沼津の三枚橋城(静岡県沼津市大手町)に入ります。すぐに家康は秀吉に拝謁。北条攻めの役割分担を決める軍議が持たれます。
3月29日。
徳川家康は箱根方面の総責任者に。
秀吉の甥の秀次は山中城攻めの総大将に。
織田信雄(のぶかつ)は韮山城攻めの総大将に決まり、
さっそく北条方への攻撃がはじまります。
山中城は小田原を攻める途中に、どうしても突破しなくてはならない重要拠点。
それだけに秀次は万全の態勢で望みました。配下には中村一氏(なかむらかずうじ)・山内一豊(やまのうちかずとよ)・田中吉政(たなかよしまさ)といった有力大名を従え、総勢6万7千800。
一方、徳川家康は北方の鷹の巣城(神奈川県足柄下郡箱根町鷹の巣山)の攻撃に向かいました。
山中城攻めは3月29日昼頃から始まりました。
城主松平康長(まつだいらやすなが)はじめ精鋭4000が守っていましたが、その日の夕方には山中城は落ちました。これにより秀吉方は箱根路を確保しました。
一方、韮山城攻略には、織田信雄が総勢4万4000で向かいました。韮山城は初代北条早雲が築いた、北条氏代々の居城です。歴史ある城ではあるのですが…
地図をご覧ください。
別にここ、突破しなくても小田原まで行けます。だから箱根路と比べると重要度は低かったです。その上、韮山城主・北条氏規は徳川家康の娘を妻に迎えており、懇意の間柄です。
秀吉としても、家康の顔を立てて、北条氏規を殺したくないという考えがあったでしょう。そのような思惑もあったかせいか、韮山城攻略はずるずると長引きました。3ケ月かけてようやく韮山城は落ちました。
秀吉本隊は箱根路を通って、4月2日。箱根湯本に到りました。
「石垣山一夜城」
さあここからが本格的な戦。
何しろ気を引き締めてかからないといけない。
小田原城と城下町は周囲9キロを「惣構え」という土塁と堀でぐるりと囲まれていました。22万の大軍をもってしても、これを攻めるのはカンタンなことではない。秀吉は長期戦を覚悟していました。
天正18年 小田原攻め
4月はじめ。
秀吉は小田原城の西正面にある笠懸山(かさがけやま)に家臣を登らせ、山頂に巨大な城を築かせ始めました。
俗に石垣山一夜城と呼ばれる城です。
正面にまっすぐに小田原城を見据える形に、石垣を持つ堅牢な城を築きました。
この石垣山城まで、私は先日歩いて!登ってきました。ほんと、真正面に小田原城が見えるんですよ。ああ…こりゃあ威圧感あるわ。秀吉えげつないことするな~と思いました。
一夜城といっても、ほんとに一夜でできたわけではないです。
4月から6月26日まで約80日間。のべ4万人を動員して城は完成しました。
城がすっかり出来上がった状態で、城の前にある木々をドササーと切り倒して、小田原城からまっすぐ見られる形にしました。しかも、城の櫓や塀に和紙を貼っておいたので、遠くから見ると立派な白亜の城がいきなり現れたと見れるわけです。
何だあれは。秀吉という男は一夜にして城が築けるのか。もう駄目だ。あんなん相手に戦えるかと、北条氏は一気に戦意を喪失しました。
しかも秀吉はこの石垣山城に側室の淀殿や、能役者、茶人の千利休まで呼んで、毎日遊び暮らし、気長に小田原城包囲を続けました。
たちが悪い敵ですね。北条側からすれば、たまったもんじゃないです。
また秀吉は陸からだけでなく、海からも小田原城を追い詰めていきました。毛利輝元・九鬼嘉隆・加藤嘉明・長宗我部元親らが1万4000の水軍をもって、小田原城を取り囲んでいました。
「ああ…もうダメだ…」
下がる北条方の士気。
北条方の支城は次々と落とされ、小田原城は孤立しました。すると秀吉方への内通者も出てきて、もうどうにもなりませんでした。
伊達政宗遅参の事
さて、石垣山城がまだ建造中の6月5日。秀吉の小田原の陣を訪れた一人の男があります。
ざっざっざっざっ…
男は諸大名の見守る中、秀吉に拝謁しました。
真っ白な、死に装束をまとっていました。
「遅参の段、御免なれ」
有名すぎるエピソードですね。
誰ですか?
伊達政宗です。
もともと北条氏が秀吉との戦に踏み切ったのは背後に伊達政宗との同盟があるから、いざとなったら伊達政宗が増援を送ってくれるという考えがあったようです。しかし政宗は当然、秀吉から北条攻めに参加せよと催促を受けており、北条につくか、秀吉につくか、ギリギリまで迷っていたようです。
「ワシは秀吉に着こうと思う」
ようやく政宗が意識を固めたのが3月25日。5月9日、会津黒川城を出発した政宗は上杉景勝の所領である越後・信濃・甲斐を経て、6月5日、小田原に着きました。
何度も秀吉からの上洛命令を無視し、思いっきり遅刻しての参陣です。首が飛んでもおかしくない状況でした。その苦しい状況を「死は覚悟しております。どうとでもしてください」と、死に装束を着るというパフォーマンスに出たものでした。
「政宗、よう来たな」
ざっ。
秀吉はやおら立ち上がると、ひざまづく政宗に歩み寄り、
ビタアアアアッ
「ヒッ…」
持っていた杖の先で政宗の首をつつき、
「もう少し遅れておったら、その首、飛んでおったぞ」
「は、ははあああーーっ」
こうして政宗を許したということです。死に装束という政宗の派手なパフォーマンスを、やはり派手好きの秀吉は気に入ったようですが、…後日会津は没収されて、蒲生氏郷の領土となってしまいました。
また、小田原攻めの後の宇都宮でも伊達政宗は遅刻して、寝ないで向かいますとか、言い訳の書状が伝わっていますので、もともと政宗は遅刻の常習犯だったようです。
小田原城、無血開城
22万の大軍で陸からも海からも包囲され、頼みの伊達政宗も秀吉方についてしまった。支城を次々と落とされ敵への内通者も増えている…その上、「石垣山一夜城」の威圧感。
北条方はすっかり追い詰められていました。
「もはや…どうにもならぬ」
7月5日、北条氏直は小田原城を出て、家康の陣所に投降します。
「よくぞご決意なされた。
関白殿も、悪くはなさりますまい」
「いや家康殿、私は死を覚悟しております。
城兵たちの命ばかりは、何卒」
「ええ、それは、もう」
家康はすぐに北条氏直が投降してきたことを秀吉に知らせます。
「ようやくか…だいぶかかったな」
氏直は死を覚悟していましたが、秀吉には別の考えがありました。主戦派と見られる氏政と弟の氏輝、および重臣二名(大道寺政繁・松田憲秀)の四名のみ切腹と決まりました。
氏政・氏輝は小田原城下の医師・田村安斎(たむらあんざい)邸(現南町)にて自刃しました。そして北条氏の氏寺・伝心庵(でんしんあん)に埋葬されました。
JR小田原駅東口に氏政・氏輝の墓と、二人がその上で切腹したという石版があるんですが…
まさかの
「おしゃれ横丁」。
こういう、商店街の中にあるんですね。
う~ん…
ほんとかよって感じですが。氏直は命ばかりは許され、高野山に追放されました。
ここに、5代100年間にわたる後北条氏の歴史は幕を下ろしました。そして戦国の世も終りを告げたのでした。
論功行賞
北条氏直が降伏し小田原城は接収されました。ここに秀吉の天下統一は成し遂げられました。戦国の世は終りを告げました。天正18年(1590)7月13日、接収したばかりの小田原城内で、論功行賞が行われます。
第一の功労者とされたのは徳川家康でした。
「北条の領土は、すべて家康殿に与える。
かわりに、これまでの領土は没収する」
ざわざわっ…
家康としては予想外のことでした。
現在領有の東海地方に加えて伊豆一国でももらえばじゅうぶんという考えでしたが、北条氏の領土すべてを与えるというのです。ふつうなら大喜びするところでした。
しかし。
家康の東海地方の経営はうまく進んでおり、しかも都に近い。それが、すべて取り上げられ、何の開発も進んでいない関東に飛ばされるとは、家康にとっては痛いことでした。
「これは…恩賞の名を借りた左遷ではないか…」
実際、秀吉は家康の力を恐れ、なるべく中央から遠ざけておきたいという考えがあったようです。もともと天正12年(1584)の小牧・長久手合戦までは秀吉・家康は敵同士。
しかも、講和を結んだとはいえ実質、戦に勝ったのは家康でした。それを何とか私に従ってくれ、臣下になってくれと、秀吉があの手この手で家康を飼いならしたわけです。
私は秀吉と家康の間に心底の主従関係は成立していなかったと思います。こいつ大丈夫かな。なんかやったら潰してやるぞと、お互いの腹をさぐりあっていた状態かと。
家康はこれが実質上の左遷であることを重々承知の上で、しかし…断れば秀吉に睨まれることになる。苦しい決断を迫られます。そこで家康が出した結論は。
「これから切り開いていけばよい」
家康は当時、不毛の荒れ地に過ぎなかった江戸の地を整え、じょじょにインフラを整備していきました。これが後の江戸、そして東京の繁栄へとつながっていきます。
東京日本橋 麒麟像 東京の繁栄をあらわす
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