豊臣秀吉(二十一) 奥羽仕置と奥羽一揆
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奥羽仕置
7月17日、秀吉は奥州に向かいます。奥羽の諸大名に対する仕置…領土の没収と分配を行うためでした。途中、宇都宮から奥羽諸大名に仕置を行うから集合するように呼びかけます。
集まった北関東・奥羽の大名たちに仕置が告げられます。ついで秀吉は白河を超え、8月9日、黒河(会津若松)に入り、ここでも仕置を大名たちに示しました。
小田原攻めに協力しなかった大名からは容赦なく土地が没収されました。協力した大名には新たな土地が与えられました。
伊達政宗は、何度も秀吉の上洛命令を無視した上、小田原攻めには遅刻してきました。宇都宮の仕置にも遅刻しました。本来、伊達家の取り潰しはやむをえない所ですが、領土没収に留まり、伊達家の存続は許されました。
一方、厚遇されたのが蒲生氏郷です。蒲生氏郷には会津・岩瀬・安積・石川・白河の奥州五郡が与えられました。奥州探題を務める伊達政宗は小田原攻めに遅刻してくるなど、いまいち信用できないので、政宗への抑えとして蒲生氏郷が配置されたと見られています。
奥羽一揆・九戸政実の乱
その後、奥羽では一揆が相次ぎます。
天正10年(1590)今回の仕置で取り潰しとなった葛西氏・大崎氏の遺臣たちが一揆を起こし新しく入ってきた木村清久の城を包囲しました。葛西・大崎一揆です。
同じく取り潰しになった和賀氏(わがし)・稗貫氏(ひえぬきし)の遺臣たちも一揆を起こし、同時期には仙北・庄内地方でも一揆が起こっています。
さらに翌天正19年(1591)一揆の混乱に乗じて、南部氏の一族である九戸政実(くのへまさざね)がお家乗っ取りを図ります。九戸政実はへいへいと秀吉の仕置に従った南部家当主・石川信直(いしかわのぶなお)に対して、不満を持っており、そこへ一揆も多発していることだし、勢いに乗ってやってやろうと、石川信直の城を攻撃しました。
「これは羽柴政権に対する反乱だ!」
石川信直はそうとらえて秀吉に援軍を要請しました。秀吉は甥の秀次を総大将に、徳川家康・上杉景勝・佐竹義重らからなる討伐軍を差し向け、九戸政実の九戸城を攻め落としました。
「い…命ばかりは…」
頭を剃って出できた九戸政実でしたが、許されず、斬られました。
こうして奥羽で起こった一連の一揆はすべて秀吉によって鎮圧されました。
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