豊臣秀吉(十七) 伴天連追放令

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島津を降参させた豊臣秀吉は、筑前の筥崎神宮に陣を置きました。ここ筥崎神宮滞在中に秀吉はいくつかの法令を発布していますが、中にも有名なのが天正15年(1587)6月19日付けで出された伴天連追放令です。

それまで秀吉は主君信長の方針を受け継いで、キリシタンには寛容でした。イエズス会宣教師コエリョはじめキリスト教徒を大坂城に招いて見物させ、大坂でのキリスト教の布教を許しました。

ところが、九州征伐の後、秀吉は長崎がイエズス会領になっているのを知ります。

「これは…どういうことだッ!!」

キリシタン大名・大村純忠が、長崎をイエズス会に勝手に寄進していたのです。

しかも大村純忠はじめ九州のキリシタン大名たちは領民にキリスト教の信仰を強制し、神社や仏閣を破壊したと言われています。

その上、ポルトガル人が日本人をさらって、中国・南蛮・朝鮮で売り飛ばしているという噂も秀吉の耳に届いていました。

また秀吉は、一向一揆のようにキリスト教徒が団結して反乱を起こすことを恐れていたようです。

天正15年(1587)6月19日。

秀吉はイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを召喚し、問いただします。

「これこれ、こういう話が届いているが、どういうことなのか」

「ふんッ…」

ガスパール・コエリョは傲岸不遜な人物でした。かつて秀吉の前で、艦隊が自分の意のままに動くように見せて自慢したことがあります。この時も高飛車な態度で答えました。

翌20日、「伴天連追放令」が出されます。

「宣教師は20日以内に日本から出て行け。
ただし貿易するのは認める」

そんなバカな。

宣教師たちはビックリしたことでしょう。

ただし秀吉はこの段階ではキリスト教を全面的に否定しているわけではないです。伴天連追放令が出たからといって宣教師に危害を加えた者は罰する。民衆が個人としてキリスト教を信仰することは自由である。大名でも秀吉に報告すれば許可する。

つまり、キリスト教徒の立場を最大限に重んじた、きわめて寛容なものでした。

秀吉はイエズス会に不法に奪われていた長崎を取り戻し、天領としました。

宣教師たちは長崎から平戸に移り、以後、おおっぴらな布教活動は控えることとしました。

ルイス・フロイスなどは秀吉のことを残酷で嫉妬深く不誠実だと叩きまくっています。しかしこの人はキリスト教の立場にどっぷりで物の見方が極めて偏っていますから、そのまま信用することは、できません。

これまでどちらかと言えばキリスト教保護にまわっていたのに一転して追放というのは、よっぽどのことで、イエズス会や宣教師の側に、そうさせるだけの何かがあったのだと思います。

教科書にあるような「戦国時代のキリスト教徒は迫害されてひたすら可哀想だった」などという、感傷的な見方は非常に危険です。

解説:左大臣光永

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