豊臣秀吉(十六) 天下人への道

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関白となる

秀吉は小牧・長久手の勝利後、翌天正13年、根来・雑賀の一向一揆衆を殲滅。いよいよ天下人として本格的になってきました。こうなると、箔付けが必要になります。そこで…一説にははじめ将軍になることを望んだようです。

将軍…すなわち征夷大将軍です。周知の通り、結局これは、なれませんでした。

なぜ秀吉は征夷大将軍になれなかったのか?

そもそも征夷大将軍とは文字通り、東(あづま)の夷(えびす)を退治する役職です。小牧・長久手の戦いで秀吉は形式上、家康に勝ったとはいえ局地的には負けており、家康を屈服させることができませんでした。

そして家康のほかにも、関東には北条氏政・北条氏直父子がいて、秀吉に屈していませんでした。さらに奥州の伊達政宗も、秀吉に屈していませんでした。

なんだ、東の夷を、てんで征伐できていないじゃないか。それで征夷大将軍を名乗るなど、おこがましい。

朝廷ではそういう判断があったようです。

秀吉は征夷大将軍になることを画策して、毛利輝元のもとに逃げ込んでいた足利義昭に働きかけた。どうか私をあなた様の猶子にしてくださいと。猶子とは仮の親子関係を結んだ子のことです。

源頼朝にせよ、足利尊氏にせよ、かつての「将軍」は源氏が多いので、源氏の末裔である足利義昭と血縁になれば、将軍になれると秀吉は考えたようです。

「余は絶対に秀吉を猶子になどせぬ!」

足利義昭は断固として断りました。結局秀吉は征夷大将軍になることは断念せざるを得ませんでした(真偽のほどは疑問視されています)。

秀吉は征夷大将軍にならずに何になったか?

ご存知のように、

関白になりました。

しかし秀吉が関白に就任するにあたっては問題がありました。秀吉はずっと「平秀吉」を名乗っていました。平氏を名乗っていたのです。しかし平氏が関白になったという話はない。関白になれるのは藤原北家流の「五摂家(ごせっけ)」と言われる、近衛・鷹司・九条・二条・一条と決まっています。

さあ困った。

しかしここで思わぬ助け船が。

前太政大臣・近衛前久(このえさきひさ)が関白職を退いた後、息子の信輔と二条昭実が関白の座をめぐって対立していました。だったらいっそ他人である秀吉に譲ってしまおうということで、まず秀吉を猶子とした上で、藤原秀吉として関白の座につかせました。天正13年(1585)7月11日のことでした。

「いよいよワシも関白か。
関白ともなれば…いつまでも寺住まいというわけにはいかぬ」

秀吉の居城は大坂城ですが、京都滞在中は妙顕寺という日蓮宗寺院を宿泊所としていました。しかし関白就任にあわせて、もっと立派な、派手にババンと権威を示すものが必要になってきました。

そこで作られたのが…よくご存じのことと思います。アレです。

聚楽第です。

工事ははやくも関白就任翌年の天正12年から始まりました。

家康を懐柔

一方で秀吉は家康に対しては懐柔策に出ます。妹の旭姫はすでに嫁いでいましたが、これを離縁させ、妻として家康に送り、さらに母親(大政所おおまんどころ)をも人質として差し出します。

「どうか、上洛してくだされ」

そう盛んに訴えるのでした。

「やれやれ…ここまでされては」

さすがの家康も、聞き入れざるを得ませんでした。天正14年(1586)10月、大坂城にて秀吉・家康は対面します。

「家康殿、今度の上洛、大義でござった」

「ははっ、…つきましてはお願いがございます」

「む、願いとな」

「殿のご愛用の陣羽織を、それがしに賜りたく存じます」

「なに!この陣羽織はワシが戦場で着る大切なものじゃ。やれるものか」

「私が殿の家臣になるからには、もう殿を戦場に立たせるようなことはございません」

「ほっ…いや、これは一本取れられた。そういうことなら、差し上げよう」

こうして、家康が秀吉に膝を屈したことが天下に示されました。

太政大臣となる

天正14年(1586)9月、秀吉は正親町天皇から「豊臣」の姓を賜りました。以後「豊臣秀吉」となります。同年12月。太政大臣に就任しました。関白太政大臣となって天下取りを目指すのは、かつての平清盛がそうでした。秀吉は平清盛を強く意識していたでしょう。

四国攻め

土佐の長曾我部元親は天正3年(1575)土佐を統一。さらに天正13(1585)年春に河野氏を破り、四国を統一しました。その一方で元親は秀吉と対立し、讃岐で秀吉の軍勢を破り、賤ヶ岳では柴田勝家に協力し、小牧・長久手では徳川家康に協力と、一貫して【反秀吉】の立場を貫いていました。

「今こそ長曾我部を下す!」

天正13(1585)年6月。秀吉は四国への侵攻を開始します。淡路から阿波。備前から讃岐。安芸から伊予という3ルートを通っての侵攻でした。

また四国攻めのさなか、羽柴秀吉は関白に就任。これにより四国攻めは天下統一のための正義の戦いという色合いを強めていきます。

8月。長曾我部元親は降伏。以後、元親は、土佐一国のみの領有を許されます。

九州攻め

天正14年(1586)薩摩の島津氏が長年敵対関係にあった大友氏を攻撃して豊後に入り、大友義統(おおとも よしむね)を豊前へ追放しました。このような動きは秀吉政権の停戦令に反したものでした。

「停戦令違反は許しがたい。島津を討伐する」

九州征伐の始まりです。総勢19万で九州に侵攻。毛利家は先鋒を命じられます。毛利輝元・小早川隆景・吉川元長、そして隠居していた吉川元春も秀吉に駆り出され、九州に渡りました。

天正15年(1587)5月、島津家当主・島津義久は秀吉に頭を剃って降伏してきました。

解説:左大臣光永

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