豊臣秀吉(十五) 小牧・長久手の合戦
■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル
織田信雄、徳川家康と結ぶ
天正11年(1583)、羽柴秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳の合戦で破り、さらに信長の三男・信孝(のぶたか)を自害に追いやりました。天下人への歩みを着々と勧めていく秀吉でした。そんな秀吉に対して、怒りをたぎらせている人物がいました。
信長の次男・信雄(のぶかつ)は、我こそは織田家の中心人物だという自負がありました。三法師は跡取りといってもまだ幼い。三男の信孝が死んだ今、織田家をまとめるのは自分しかいないではないかと。
しかし秀吉の行いを見ると、三法師を後見するという名目で織田家を乗っ取ろうとしているのは明らかでした。
「おのれ秀吉、好き勝手させるか」
そこで信雄は、秀吉と対抗しうる東海道の有力者・徳川家康に接近します。徳川家康は本能寺の変の時、堺見物をしていて駆けつけることができず、したがって清須会議にも招かれませんでした。豊臣政権の中で浮いた存在となっていました。それでいて軍事力は持っている。これは手を結ぶしかないと、信雄は家康に接近します。
「家康殿、ともに秀吉の専横を打ち砕きましょう」
「うむ…たしかに秀吉のやりよう、目に余ります。あれは光秀と同じ謀反人です」
そんな話し合いが持たれつつもしばらくは何事も起こりませんでした。ところが、天正11年(1583)暮。秀吉が、信雄に大坂城への出仕を求めてきたことにより、事態が一変します。
「何様のつもりか。
本来、秀吉は織田家の一家臣に過ぎぬ!
主筋である余に出仕を求めるとは
勘違いもはなはだしい!」
織田信雄は怒り狂い、伊勢長島城に引きこもります。そして秀吉と並び立つ有力者・徳川家康に書状を出し、味方してくれるよう呼びかけます。家康は、
「うむむ…たしかにこの所の秀吉の横暴。
目に余るものがあります。
お力添えしましょう」
前の賤ヶ岳合戦で秀吉は信長の三男・信孝を自刃に追いやりました。それを見るに、秀吉に織田家簒奪の野心があることは明らかでした。
「ここらで秀吉に歯止めをかけねば」
家康はそう考えたようです。勝算はありました。なにしろ家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国を所有する大勢力。その上秀吉は柴田勝家を破ったといっても、まだ天下を完全に掌握したわけではありませんでした。関東の北条氏政・氏直父子は秀吉に屈服していませんでした。越中の佐々成政、土佐の長宗我部元親も反秀吉の立場でした。雑賀衆・根来衆も味方になってくれそうでした。
これら、反秀吉勢力と連絡を取り合い、秀吉包囲網を形成する…家康はそのような大規模なプランを考えていました。
挙兵
こうして、織田信雄は伊勢で、徳川家康は尾張で挙兵するという運びになりました。
家康は尾張・小牧山城に入ります。小牧山城はかつて信長が美濃攻略のために築いた城です。小牧山の前には広い平原をへだてて、秀吉方・犬山城がありました。
天正12年(1584) 小牧・長久手の合戦
「正面からまともに戦うのは愚の骨頂。砦を築け」
家康方は小牧山城全面に砦を築きます。少し遅れて秀吉が犬山城に到着。
「家康殿は戦上手。まともに戦ってはならぬ」
そう言って秀吉も犬山城前に砦を築きました。
こうして、家康方の小牧山と、秀吉方の犬山城とでニラミあったまま、いたずらに日数が過ぎていきます。
羽柴方別働隊・羽柴秀次の動き
「これではラチがあきません。別働隊を組織し、
家康の本拠地・三河を突きましょう」
池田恒興が提案しました。
秀吉の弟の秀次が言います。
「池田恒興殿の案はすこぶる良い。
それがしが大将を努めましょう。
殿、いかがですか」
「うむ…やってくれるか」
秀吉はこの案を容れました。
秀次を大将として、森長可(もりながよし)と池田恒興で2万の軍勢を率いて、
家康の本拠地である三河岡崎城を攻めるという策です。
「見事徳川を負かした暁には
尾張の領土を与えよう」
「ははっ」
士気上がる秀次軍。
長久手の戦い
しかし、秀吉方別働隊が三河に動いているという情報は、伊賀衆を通じて徳川家康に伝えられました。
「榊原康政」
「ははっ」
「敵を迎え撃て」
天正12年(1584)4月9日未明。
家康は榊原康政を先鋒とする1万4000を長久手(愛知県愛知郡長久手町)に動かし、秀吉方別働隊を迎え撃ちます。
天正12年(1584) 小牧・長久手の合戦
羽柴秀次方20000、徳川家康方1万4000で合戦となります。
わあーーーー
わああーーーーーー
「我こそは徳川四天王が一人・榊原康政」
「ぬおっ、伏兵だ、退けっ、退けーーーっ」
家康方に散々に攻め立てられ秀吉方は大混乱となります。大将秀次以下、ほうほうの体で敗走していきます。
「よし。ワシも出るぞ」
続いて家康の本隊も追撃に加わり、秀次の軍勢を攻めに攻めます。
二時間あまりの戦闘の末、家康方は秀吉方・森長可と池田恒興を討ち取り、勝利をおさめました。森長可は「鬼武蔵」の異名を取る勇猛果敢な武人でしたが、この戦いでついに運が尽きました。
家康は深追いせず、勝利の後はすぐに小幡城(こはたじょう)に引き返しました。
同じ頃、秀吉は家康を討つために小牧山に向かっていましたが、途中、家康方・本多忠勝に阻まれ、足止めをくらっていました。
信雄、秀吉と単独講和
「うぬぬ…やはり家康は一筋縄ではいかぬ。家康と戦うのは、愚の骨頂」
そこで秀吉は方針を切り替えました。家康が旗印とする、織田信雄に直接揺さぶりをかけました。羽柴秀次に命じて信雄の領土である伊勢・美濃を攻撃する一方、信雄方の武将を得意の調略で次々と寝返らせていきました。信雄はもともと器が小さく、人望がなかっので、調略はうまくいきました。
「わかった…降参する」
天正12年(1584)11月15日、信雄は伊勢の矢田川原にて秀吉と会見し、屈辱的な講和を結ばされました。信雄は人質を差し出し、領土を割譲することを飲まざるを得ませんでした。
この講和は、家康のあずかり知らない所で、信雄・秀吉のみで行われた単独講和でした。
「なっ…なんと…!!」
絶句する家康。
家康は織田信雄を助けて織田家を守るというのが大義名分でしたので、担ぐべき織田信雄が秀吉と講和してしまったとなると…もはや何もできることはありませんでした。
「秀吉…うまくやりおったな…」
家康は兵を引き上げる他ありませんでした。
「なんじゃ!戦は無しか」
長宗我部元親も、紀伊の一向宗門徒も、兵を退きました。
家康もしぶしぶながら講和を受け入れ、次男の於義丸(秀康)を秀吉に人質として差し出しました。
こうして秀吉は織田家をおさえ、最大の実力者徳川家康をもおさえ、いよいよ天下人としての地盤を固めていきました。
次の章「豊臣秀吉(十六) 天下人への道」
「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など、日本史の名場面を、一回10分程度で楽しくわかりやすく語った解説音声です。全58章10.8時間。社会人の学びなおしにもどうぞ。あと長距離バスで移動中とかいいと思います。
↓↓↓こんな感じで喋ってます「武田信玄の生涯」↓↓