斉明天皇の遠征
百済からの援助要請
この頃中国では隋にかわって強大な帝国唐が君臨し、
周囲に勢力をのばしていました。
朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の三国が互いに争い、
不安定な情勢でした。
【唐、新羅、百済、高句麗】
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660年、唐は新羅と連合し百済を攻撃。
たちまち百済の首都泗ビは陥落し、百済は滅亡します。
660年、百済の遺臣たちは日本に軍事援助を要請してきました。同時に、643年から日本に質(ち。人質)としてある、百済の王子・余豊璋(よ ほうしょう)を返還してくれと言ってきます。
斉明天皇はこの申し出を受け入れます。
661年正月、船団は難波津を出発し、
瀬戸内海を経てまず九州へ向かいます。
【斉明天皇の遠征】
船乗りせむと月待てば
途中、四国伊予の熟田津で一時
船団を休めていました。
満点の星空高くに月が上り、
ざぶんざぶんと船に打ち寄せる潮の流れも
ちょうどよくなってきました。
甲板の上には、
斉明女帝をはじめ、中大兄皇子、弟の大海人皇子、
そして大海人皇子の妻であり中大兄の娘である
ウ野讃良皇女。はるかに下がって中臣鎌足の姿もありました。
並み居る群臣たちを前に
斉明女帝がおっしゃいます。
「船出にはちょうど良い時分になってきました。
出発を前に、誰か歌を詠んでくれる者はありませんか」
ざわざわっ…
これから戦に向かおうという時に、
ヘタな歌でも詠んだら全体の士気にかかわります。
まして、歌には何か霊的な力があると信じられていた時代です。
万一帝のお怒りにでも触れたら…誰もが目を伏せて、
名乗り出るものはありません。
「どうしました。誰も詠めぬのですか」
「では、僭越ながら私が」
一人の女官が歩み出ます。
「おお、額田王(ぬかたのおおきみ)、
やってくれますか」
斉明女帝のそばにいつも控えている
女流歌人の額田王が、
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今はこぎいでな
(意味)
熟田津で船に乗ろうとして月の出を待っていると、
潮の流れもちょうどいい具合になってきた。
さあ今こそ漕ぎ出そうよ。
「おおぉ…すばらしい!」
「なんと雄大な歌いっぷりだろう」
全軍の士気が上がること、著しいものがありました。
額田王
額田王は斉明~持統天皇の時代に活躍した女流歌人で、
有名なわりにハッキリしたことは何もわかっていません。
皇極女帝に仕え、天皇や貴人の歌を代作する宮廷歌人のような
役割をしていたようです。
鏡王(かがみのおおきみ)の娘であり、
大海人皇子に嫁いで十市皇女を生んだと言いますが、、
『日本書紀』に書かれていることは、その一行だけです。
【額田王】
十市皇女を生んだ後、大海人皇子の兄、中大兄皇子の後宮に召され、
よって弟大海人と兄中大兄との間で三角関係になったのではないかなど、
後世の人は妄想をたくましくしていますが、確証はないです。
【額田王、中大兄皇子、大海人皇子】
『万葉集』に額田王の歌は12首が採られ、
その中にも新羅遠征の途上で詠まれた「熟田津に…」の歌は
教科書などでも有名ですね。
熟田津は道後温泉の近くの港だということですが、
ハッキリした位置はわかっていません。