白村江の戦い
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斉明天皇の崩御
その後、斉明天皇の船団は瀬戸内海を通って
九州筑紫に到着し、朝倉宮という仮の宮殿を建てます。
【朝倉宮】
しかし筑紫滞在中、斉明天皇は崩御されます。
享年68。大化の改新以来のさまざまな政治改革を
つぶさに御覧になってきた天皇でした。
最初に即位された時は皇極天皇と言い、
孝徳天皇をはさんで重祚され、
斉明天皇となりました。
日本の歴史の中で重祚した天皇は
二人だけです。
【斉明天皇】
母なる斉明帝を悼んで、
中大兄が詠んだ歌が残っています。
君が目の恋しきからに泊(は)てて居て
かくや恋ひむも君が目を欲(ほ)り
(恋しいあなたにもうお目にかかりたいばかりに
海の上に留まっておりますのに、もはや生きたあなたには
お会いできないのですね。このように恋しさが募ることです。
あなたにお目にかかりたいばかりに
斉明天皇の葬儀は朝倉宮で行われます。『日本書紀』にはこの時不気味な記事があります。朝倉山の上に大きな笠をかぶった鬼がおり、斉明天皇の葬儀をじっと見ていたと。この記事は何を意味するのでしょうか。
太田皇女とウ野讃良皇女の出産
一方、めでたいこともありました。
大海人皇子の二人の妃、
太田皇女(おおたのひめみこ)とウ野讃良皇女がこの遠征中続けて出産します。
【大泊皇女と草壁皇子】
太田皇女との間に生まれた皇女は大伯皇女(おおくのひめみこ)。
ウ野讃良皇女との間に生まれた皇子は草壁皇子(くさかべのみこ)と名付けられました。
太田皇女とウ野讃良皇女、この二人は実の姉妹です。
姉妹で大海人皇子に嫁いでいました。
白村江の戦い
中大兄は、母斉明天皇が亡き後の一族を取り仕切り、
喪服のまま政務にあたりました。
「今こそ皇太子殿下が即位されるべき時です」
中臣鎌足はしきりに勧めます。
しかし中大兄は、
「まだその時期では無い。朝鮮での戦いが終わるまでは
皇太子でいよう」
中大兄は天皇にならず皇太子のまま「称制」という形で
指揮を取り、朝鮮へ船団を派遣します。
その頃朝鮮では…
新羅軍が百済最後の拠点周留城(スルじょう)を包囲。
唐の船団は海から周留城に迫ります。
新羅・唐の連合軍が陸海から周留城を挟みます。
倭国の船団は白村江沖に唐の船団と対峙。
【663年 白村江の戦い】
正面突破を試みますが、ひょうひょうと火矢を放たれ、
全軍炎に包まれ、総崩れとなりました。
663年白村江の戦いは
完全な、倭国の敗北に終わり、
ここに百済は消滅しました。
「何!わが船団が破られたと」
筑紫朝倉宮で報告を受けた中大兄は、
へたれこみます。
へたれこむ兄中大兄を、
弟大海人が支えます。
「兄上、もう仕方がございません。今は国内の守りを固めましょう」
「国内の守りか。そうだな。いつ唐が攻めてくるかわからぬ」
国の守り
白村江の敗北により、
早急に国防を強化する必要が生じました。
筑紫、壱岐、対馬には「防人」という兵士を配置し、
九州の守りの要である大宰府は大規模な堀をほって
取り囲み、「水城(みずき)」と名付けました。
水城
水城
瀬戸内海沿いの要所要所には
百済からの亡命技師の助力のもと、
朝鮮式山城を築きました。
これら中大兄による白村江以降の政策…朝鮮指揮山城を築いたり北九州に防人を置いたり大宰府、水城、大野城を置いたことは、白村江の戦いに負けたことで唐が国内に攻め込んでくる危険性が高まったため、防衛策であったのだ、と説明されるのが普通です。
しかし、唐は白村江の後も高句麗や新羅と戦争を続けており、すぐに倭国に攻め込めるような余裕はありませんでした。
また白村江の戦いの後、すぐに唐と倭国との間に捕虜交換が行われています。しかも倭国は高句麗や新羅との戦いにおいて唐に協力すると、約束までしています。
つまり、白村江でケリがついて、戦争はとっくに終わってました。唐が日本に攻め込んでくる可能性など、皆無でした。
防人も、大宰府も、水城も、大野城も、実はさしあたって必要なものではなかったんですね。
にも関わらず中大兄は唐が攻め込んでくる危険を説き、防備を固め軍拡を進めました。
何のために?
倭国の軍事力を高め、中央集権国家の礎を築くためだったではないでしょうか。倭国の軍事力を高めるために外国の侵略という恐怖を、うまく利用したのでしょう。