大石内蔵助09 吉良邸討ち入り

こんにちは。左大臣光永です。

先日、大原の寂光院に行ってきました。まだ完全に紅葉してはいませんでしたが、赤と緑のいりまじった紅葉が、すばらしかったです。

池水に紅葉が散り敷く中を、鯉がゆったり泳ぎ、ぼちゃぼちゃと水音が響くのが、よい風情でした。大原は、何度行っても、よいです。

さて年末のこのシーズンですから、赤穂浪士の吉良邸討ち入りについて語ります。11月22日からは映画『決算!忠臣蔵』が広開されることでもありますし。

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元禄15年12月15日寅の上刻(午前3時半)大石内蔵助はじめ赤穂浪士47名は、旧主浅野内匠頭長矩の無念を晴らすため、宿敵吉良上野介の屋敷に討ち入りました。2時間あまりにわたる戦闘の末、赤穂浪士は吉良の首級を上げました。

討ち入り前

元禄15年(1702/3)12月14日、午後8時頃、大石内蔵助は小野寺十内とともに籠に乗り、両国矢の倉米沢町(中央区東日本橋2丁目)の堀部弥兵衛宅に入りました。

ここで内蔵助は小野寺十内、堀部弥兵衛と最期の酒を酌み交わしました。それから内蔵助は小野寺十内としばらく将棋をさしました。

夜がふけるにつれて、次々と浪士たちが集まってきます。

午前12時。大石内蔵助はじめとする四十七士は、本所林町の堀部安兵衛宅(本所林町五丁目(墨田区立川三丁目十五番地))、杉野十平次(すぎのじゅうへいじ)宅に移り、着替えを済ませます。

甲頭巾をかぶり、黒の小袖の下に鎖帷子、鎖入の股引をはき、脚絆にすね当てを当て、武者わらじをはきました。袖の下には目印としてめいめいの名を書いてありました。

15日午前2時。一行は相生町(墨田区両国三丁目二番地)の前原伊助の仮屋に移ります。前原伊助は吉良邸裏門から60メートルの位置に米屋を出して吉良邸の情報をさぐっていました。この「前原米店」が、今夜の討ち入りの前線基地となります。

夜が更けるにつれて、ほかの浪士たちも次々と、前原伊助の仮屋に集まってきました。

暗闇に目をならし、口に酸味の薬を入れると、各々、刀・槍・弓・長刀・斧など、得意な武器を手に取ります。寅の上刻(午前3時半頃)、表門組と裏門組に分かれ、両国本所の吉良上野介邸へ出発しました。

吉良邸討ち入り

ざっざっざっざっ…

昨日降った雪に暁の霜がおりて足元は安定していました。人目を避けるため松明も提灯もつけませんが、月の光が雪を白白と照らし出し、明かりには困りませんでした。

医者の寺井玄達が、負傷者の手当のため吉良邸のそばに待機します。

内蔵助率いる表門組23人は二筋のはしごをかけ、屋根を越えて侵入します。どさっ、どさどさっ。邸内の雪の上に降りると、

口上書を入れた文箱を竹竿の先にくくりつけたものを内玄関前に打ち立て、小野寺幸右衛門が名乗りを上げます。

「我ら浅野内匠頭の旧家臣。旧主の無念をはらさんため、上野介殿の御首級(みしるし)をいただきに推参つかまつった」

三人一組となって、ドカドカと邸内に踏み込んでいく。

「な、何事だ!ああっ」

ずばっ

番人は突然の襲撃にわけの分からないまま、斬られてしまいます。そこに弓が立て並べてあったので、小野寺幸右衛門は敵がこれを使うことを嫌って弓の弦をすべて切りました。

不破数右衛門は武勇一辺倒の人です。この夜はもっとも活躍し、4、5人を斬り伏せました。書院にまで踏み込んだところ、背後からぶんと薙刀をふるってくる。

アッと刀を構えてふりかえると、まだいとけない少年でした。なんだ子供か。いくらなんでもこんな子供を殺せるか、不破数右衛門は適当に少年の薙刀をかわしますが、少年はがむしゃらに撃ち込んでくる。仕方ないと、肩に軽く斬りつけると、

うわあっと少年は奥へ逃げていった。実はこの少年こそ上野介の養子・義周(よしちか)であったのですが…後でそれを知った不破数右衛門は地団駄を踏んでくやしがりました。

裏門隊24人は吉田忠左衛門を大将として、小野寺十内、間喜兵衛(はざまきひょうえ)が指揮を取りました。

三村次郎左衛門(みむらじろうさえもん)と杉野十平次(じゅうへいじ)が大槌(かけや)という大きな木槌で

ドン、ドン、ドカッ、バキッ

門を打ち破ると、

「火事だァ!」

と叫んで敵を撹乱し、門入ってすぐ左の長屋の前で二人の敵をずば、どすと突き殺しました。

「目指すは吉良の首!」

表門組と裏門組は合流して吉良の寝室に向かいますが、すでにも抜けの殻でした。

「ちっ、逃げられたか!」
「いや!待ってください」

茅野和助(かやの わすけ)が寝具の中に手を入れると…

「まだ暖かい。吉良は近くにいます!」

四十七士は血眼になって吉良のゆくえをさぐります。吉田忠左衛門、寺坂吉右衛門、間十次郎が台所の裏の炭部屋を調べようとすると、中から人の気配がする。

すかさず。中から皿や茶碗や炭を投げつけてきて、ばっと三人の吉良家臣が飛び出す。ずばっ。ぐふう。これを返り討ちにして、部屋の奥をのぞくと、もう一人人影がある。

「出てこい」

間十次郎が叫びました。間十次郎この時25歳。父喜兵衛・弟新六郎とともに討ち入りに加わっていました。四十七士の中で家族三人で討ち入りに加わったのは、この間家が唯一です。

灯りを向けると、炭俵の後ろで人影が動く。そこかっと一槍突きます。がらがらっ。炭俵がくずれ、白い寝間着姿の老人が前に投げ出される。

「ひ、ひいいいっ…」

老人は脇差を抜いて、振り回しながら逃げ出す。

武林唯七が、後ろからざんと斬りつける。

ぐはっ…どさっ。

「もしやこれが上野介では」

間十次郎が老人を庭にひっぱり出す。調べてみると、首のお守りが普通のものとは違っている。額を見ると、傷がある。背中にも傷がある。

「間違いない。上野介を討ち取ったぞ」

ピィーーー

武林唯七が合図の笛を吹き、皆を集めます。

そこで捕らえておいた吉良方の足軽に見せると、

「ご隠居さまです」

証言が得られたので、内蔵助はゆっくりと刀を抜き、上野介の胸に突き立て、とどめをさしました。

「ようやく、ようやく…」

嗚咽をもらす同志たち。

それから内蔵助は一番槍の間十次郎に自分の刀をわたし、吉良上野介の首を切り落とさせると、首を白い布で包みました。

ここまで二時間程度。吉良方の死者は15名。負傷者は23名。

一方の四十七士側は死者ゼロ。負傷者二名でした。

屋敷内には150人もの家来がいましたが、深夜のことで皆寝間着を着ており、まともに抵抗する間もなく斬られました。また敵の襲撃と見るや小屋に引き籠もって、ひたすら震えている者も多くありました。そのため、吉良側の実際の戦力はわずかなものでした。戦いは一方的に討ち入り側、有利に進みました。

最後に、全員でもう一度邸内を見回り、火の不始末がないか確認しました。ろうそくはふき消し、火鉢にも水をかけるという念の入りようでした。
確認をすませると、西の裏門に集合し、堀部安兵衛が点呼を取りました。

四十七士は本懐を遂げた高揚感に包まれ、吉良邸を後にしました。

討ち入りの後

元禄15年(1702/3)12月15日、明六ツ(午前六時)

赤穂義士47人は宿敵吉良上野介を打ち取り本懐を遂げた後、吉良邸裏門から通りに出ました。全身に返り血をあびている者、鎧帷子がホロボロになった者。それぞれ、各々、すさまじい姿でした。

外には大石内蔵助の親類や堀部安兵衛の親類が待っていました。やったのだな。成功か!おお…口々に上がる歓声。

「お疲れさまでした。皆さん!ほんとうにお疲れさまでした!」

近松勘六の下僕・甚三郎が、皆にみかんと餅を配ってまわります。

「甚三郎、一つ頼まれてくれぬか」
「はっ、私でございますか」
「これをな…」

大石内蔵助が取り出したのは、討ち入り成功の書状でした。これを旧主浅野内匠頭北の方・遥泉院(あぐり)の付き人・落合与左衛門のもとに届けてくれと、甚三郎は大石内蔵助よりたのまれました。

大石内蔵助像(大石神社)
大石内蔵助像(大石神社)

そしてもう一人、お使いをたのまれた人物がいます。

寺坂吉右衛門は、最年長の義士・吉田忠左衛門の下僕です。足軽身分で唯一、四十七士に加わり討ち入りに参加しました。

その寺坂吉右衛門が、主君・吉田忠左衛門より頼まれます。広島で預かりになっている、浅野大学への討ち入り成功の書状を(逃げ出したという説もあり)。

甚三郎はすぐに出発しましたが、寺坂吉右衛門は一行から離れるのは名残惜しいと、泉岳寺まで付いていくことにしました。

一行はまず吉良邸隣の無縁寺(回向院)を訪ねました。回向院は明暦3年(1657)正月の明暦の大火で亡くなった人びとの菩提を弔うために建立された寺院です。ここで休ませてもらおうとしましたが

回向院ではは義士たちの血まみれの姿を見て恐れをなして、門を開けませんでした。

両国回向院
両国回向院

そこで両国橋東詰広場に移動。しばらく休憩した後、

一之橋通を南下。永代橋を渡り、泉岳寺に向かいました。吉良上野介の首は潮田又之丞(うしおだ またのじょう)が槍に下げて掲げました。

新橋近くで、大石内蔵助は吉田忠左衛門(よしだ ちゅうざえもん)と冨森助右衛門(とみのもり すけえもん)の二名に書状を託します。「浅野匠家来口上」です。これを持って、幕府大目付・仙石伯耆守の愛宕下の屋敷へ自訴(自首)に向かわせます。

※引き揚げコース
回向院で断れた後、両国橋のたもとで休憩。隅田川に沿って一之橋通りを南下し、永代橋を渡り八丁堀方面へ。築地・西本願寺の裏手から汐留・金杉橋を経て、現在の第一京浜を通って高輪泉岳寺へ。

午前九時すぎ、一行は芝泉岳寺に入ります。門前はおしかけた見物人でごった返しました。見物人たちは義士の姿を見たいのですが、大石内蔵助は身長が低いので、槍の先しか見えなかったといいます。

芝泉岳寺
芝泉岳寺

ここまで付いてきた寺坂吉右衛門でしたが、大石内蔵助が、

「寺に入ることは思い留まるがよい。忠左衛門からの用事をふいにしてはならない。今はもう広島に迎え」

と言うので、寺坂吉右衛門はここで別れました。しかしやはり同志の行く末が気になり、処分が決定してから広島に向かったといいます。

一行は泉岳寺に入ると、旧主浅野内匠頭の石塔の前に吉良上野介の首を供え、大石内蔵助が代表して旧主に本懐を遂げた次第を報告。

泉岳寺 首洗井戸
泉岳寺 首洗井戸

吉良上野介の首を直接討ち取った間十次郎(はざま じゅうじろう)をはじめとして、大石内蔵助、原惣右衛門(はら そうえもん)以下、全員が焼香しました。

大石内蔵助が歌を詠みました。

あら楽し思いは晴るる身は捨つる
浮世の月にかかる雲なし

さて、赤穂義士の自訴(自首)を受けて、幕府大目付・仙石伯耆守のもとから取り調べのため、御徒目付(おかちめつけ。目付の指揮の下、警察活動を行う役人)が派遣されてきました。

「大石内蔵助。そなたが差し出した口上書には、同士は47人とある。一人足りぬようだが?」

「一人は脱落いたしました。吉良邸に向かう時にはおりましたが、その後、どこへ行ったものやら…」

※ここまでに抜けた義士
寺坂吉右衛門→広島 浅野大学のもとへ?
吉田忠左衛門→幕府大目付・仙石伯耆守邸へ
冨森助右衛門→幕府大目付・仙石伯耆守邸へ

寺坂吉右衛門は浅野大学へ報告という任務をおびて一行を離脱したと言われていましたが、近年、単なる「蓄電」(逃亡)だったという説が有力になっています。

「そうか。まあよし…今度のそなたらの振る舞い、実にまったく、感心したぞ!改めて、全員そろって、仙石邸に参られるがよい」

「かしこまりました」

泉岳寺の赤穂義士たち

赤穂義士たちは泉岳寺ですぐに切腹を命じられると思っていましたが、そうはなりませんでした。今後の処分も決まらないまま、赤穂義士たちは夜の8時ころまで泉岳寺に留め置かれます。

討ち入りでボロボロになった刀を研ぐ者、家族に手紙を書く者、また泉岳寺には150人からの修行僧がいましたが、彼らがひっきりなしに義士たちを見に来て、どんなだったですか、討ち入り、怖かったでしょうねえ、話をきいたり、サインを求めてきたり。まるでヒーロー扱いでした。

泉岳寺では義士たちに食事の用意をはじめました。

すると、吉良上野介の首を討ち取った間十次郎が、包に巻かれた吉良上野介の首を持ってきて、包を解きます。

「とくとご覧あれ。この首、見納めでござるぞ」

間十次郎は両手で吉良の首を持って義士たちに見せびらかした後、寺が用意した茶壺に吉良の首を据えて、そのまま血まみれの手で箸を取って、食事をはじめました。

そこへ、泉岳寺の改舟という僧が酒を運んできます。

「肴がございませんが…」

すると義士たちは「肴ならここにある」と、首の吸えられた茶壺を指さしたということです。

午後8時過ぎ、44人の赤穂義士は泉岳寺の僧十数人に守られながら、愛宕下の仙石邸に出発しました。

四大名に預かり

赤穂義士46名への処分はひとまず保留となり、4つの大名家の江戸屋敷に分けて預かりとなります。

熊本藩細川家へ大石内蔵助ら17名、伊予松山藩松平家へ大石主税や堀部安兵衛ら10名、長州藩毛利家へ前原伊助ら10名、三河岡崎藩水野家へ間十次郎ら9名が預かりとなりました。

一人失踪した寺坂吉右衛門に対して、厳しい追求は行われませんでした。仙石伯耆守のはからいと思われます。四十七士の中で唯一、足軽身分であったことも関係しているでしょうか。寺坂はその後、伊藤家、山内家という二つの武家に奉公し、83歳でまで生きて、四十七士の中で唯一、天寿をまっとうしました。

細川家では、大石内蔵助ら17名を客人として丁重にもてなしました。

「かかる勇士を預かることは大変な名誉である」そう言って藩主細川綱利は自ら浪士たちに対面。19名の接待役をつけました。

その中に肥後山鹿の人・堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん)は義士たちに同情的で、家族への手紙を取り次いだりしました。

また、義士たちから討ち入り前後の事情を聞き取り、それを書き留めました。

食事は毎日、豪華でした。藩主と同じニ汁五菜(汁物2品とおかず5品)、上戸には酒が、下戸には甘酒がふるまわれ、昼は茶菓子。夜食にはうどんが出るという有様でした。義士たちはいい加減胃にもたれてきました。

「御家老、なんとかしてくださいよ」
「ううむ…ありがたいことだが、さすがにここまで来るとな」

そこで大石内蔵助は、接待役に申し出ます。

「我々は浪人生活が長かったものですから、粗食に慣れております。飯は玄米とイワシでじゅうぶんです」

「左様でございますか。では料理人にそう言っておきましょう」

しかし料理人たちは、

「食事のことは上から命じられていますので、殿の許可がなければ変えることはできません」

そう言って断れたばかりか、食事はかえって豪華になりました。

また大石内蔵助は大変な寒がりで、いつもこたつに入って酒を飲みました。寝る時は、旧主浅野内匠頭の北の方・遥泉院からいただいた頭巾をかぶって寝ました。その様子をみて、他の義士たちはクスクス笑いました。「昼行灯」の評判は、預かりになってからも伊達ではなかったのです。

ある晩、接待役の堀内伝右衛門が義士たちに呼ばれて部屋に行ってみると、20代から30代の数名が待っていました。

「間もなく処分も決まるであろうから、この世の名残に芸つくしを披露いたしましょう」

そう言って、余興大会が始まりました。若い義士たちは歌舞伎や狂言の口真似をして、おもしろおかしくやってみせました。

それを隣で聞いていた年配者たちは苦笑しながら、

「明日は大石に頼んで手錠をかけてもらいましょう」

とつぶやいたとか。預かり生活の中にはそんなほのぼのした場面もありました。

全員切腹

翌元禄16年(1703)2月4日午後2時頃、浪士たちが収容されている江戸の四つの屋敷に、それぞれ幕府からの上使(将軍の使い)が到着します。

「全員切腹」

細川家下屋敷では幕府の上使が大石内蔵助らにそう伝えます。大石内蔵助は、

「どのような処分でも受け入れなければならぬところ、切腹とは…
同士を代表し、感謝いたします」

「うむ…」

そこで上使は大石内蔵助に近寄り、小声で言いました。

「吉良家は改易と決まりましたぞ」

「!!」

大石内蔵助は別室に下がると、他の16人の義士たちにこの事を告げました。

「おお!吉良家断絶!」
「我らの働きはムダではなかった!」

義士たちは涙を流して喜びあいました。

その後、大石内蔵助は当主・細川綱利に拝謁し、

「今日までのご親切、お礼の申しようもございません」

深々と頭を下げました。

その後、内蔵助は堀内伝右衛門に対し、養子覚運への伝言を頼みます。

「天気もよき今日、父は晴れ晴れした気持ちで死に赴いたとお伝えください」

切腹は、細川藩下屋敷大書院の前庭にて、午後4時ころから行われました。5時ころには全員が果てました。大石内蔵助享年45。

泉岳寺 赤穂義士の墓
泉岳寺 赤穂義士の墓

泉岳寺 大石内蔵助の墓
泉岳寺 大石内蔵助の墓

その後、吉良家は使いの言った通り、知行地を没収され、改易となりました。

解説:左大臣光永

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