大石内蔵助10 吉良邸引き上げ・その後の赤穂義士

討ち入りの後

元禄15年(1702/3)12月15日、明六ツ(午前六時)

赤穂義士47人は宿敵吉良上野介を打ち取り本懐を遂げた後、吉良邸裏門から通りに出ました。全身に返り血をあびている者、鎖帷子がホロボロになった者。それぞれ、各々、すさまじい姿でした。

外には大石内蔵助の親類や堀部安兵衛の親類が待っていました。やったのだな。成功か!おお…口々に上がる歓声。

「お疲れさまでした。皆さん!ほんとうにお疲れさまでした!」

近松勘六の下僕・甚三郎が、皆にみかんと餅を配ってまわります。

「甚三郎、一つ頼まれてくれぬか」
「はっ、私でございますか」
「これをな…」

大石内蔵助が取り出したのは、討ち入り成功の書状でした。これを旧主浅野内匠頭北の方・遥泉院(あぐり)の付き人・落合与左衛門のもとに届けてくれと、甚三郎は大石内蔵助よりたのまれました。

大石内蔵助像(大石神社)
大石内蔵助像(大石神社)

そしてもう一人、お使いをたのまれた人物がいます。

寺坂吉右衛門は、最年長の義士・吉田忠左衛門の下僕です。

その寺坂吉右衛門が、主君・吉田忠左衛門より頼まれます。広島で預かりになっている、浅野大学への討ち入り成功の書状を(逃げ出したという説もあり)。

甚三郎はすぐに出発しましたが、寺坂吉右衛門は一行から離れるのは名残惜しいと、泉岳寺まで付いていくことにしました。

一行はまず吉良邸隣の無縁寺(回向院)を訪ねました。回向院は明暦3年(1657)正月の明暦の大火で亡くなった人びとの菩提を弔うために建立された寺院です。ここで休ませてもらおうとしましたが

回向院ではは義士たちの血まみれの姿を見て恐れをなして、門を開けませんでした。

両国回向院
両国回向院

そこで両国橋東詰広場に移動。しばらく休憩した後、

一之橋通を南下。永代橋を渡り、泉岳寺に向かいました。吉良上野介の首は潮田又之丞(うしおだ またのじょう)が槍に下げて掲げました。

新橋近くで、大石内蔵助は吉田忠左衛門(よしだ ちゅうざえもん)と冨森助右衛門(とみのもり すけえもん)の二名に書状を託します。「浅野匠家来口上」です。これを持って、幕府大目付・仙石伯耆守の愛宕下の屋敷へ自訴(自首)に向かわせます。

※引き揚げコース 詳細
回向院で断られた後、両国橋のたもとで休憩。隅田川に沿って一之橋通りを南下。萬年橋(元禄6年開橋)で小名木川を渡り、永代橋(元禄11年開橋)で大川を渡り霊岸島へ。松平越前守の広大な中屋敷を大回りして、亀島川にかかる高橋を渡り、稲荷橋を渡り、もと浅野家の上屋敷のあった鉄砲洲へ。八丁堀方面へ。築地・西本願寺の裏手から汐留・金杉橋を経て札の辻(現第一京浜)を通って芝泉岳寺へ。

午前九時すぎ、一行は芝泉岳寺に入ります。門前はおしかけた見物人でごった返しました。見物人たちは義士の姿を見たいのですが、大石内蔵助は身長が低いので、槍の先しか見えなかったといいます。

芝泉岳寺
芝泉岳寺

ここまで付いてきた寺坂吉右衛門でしたが、大石内蔵助が、

「寺に入ることは思い留まるがよい。忠左衛門からの用事をふいにしてはならない。今はもう広島に向かえ」

と言うので、寺坂吉右衛門はここで別れました。しかしやはり同志の行く末が気になり、処分が決定してから広島に向かったといいます。

一行は泉岳寺に入ると、旧主浅野内匠頭の石塔の前に吉良上野介の首を供え、大石内蔵助が代表して旧主に本懐を遂げた次第を報告。

泉岳寺 首洗井戸
泉岳寺 首洗井戸

吉良上野介の首を直接討ち取った間十次郎(はざま じゅうじろう)をはじめとして、大石内蔵助、原惣右衛門(はら そうえもん)以下、全員が焼香しました。

大石内蔵助が歌を詠みました。

あら楽し思いは晴るる身は捨つる
浮世の月にかかる雲なし

さて、赤穂義士の自訴(自首)を受けて、幕府大目付・仙石伯耆守のもとから取り調べのため、御徒目付(おかちめつけ。目付の指揮の下、警察活動を行う役人)が派遣されてきました。

「大石内蔵助。そなたが差し出した口上書には、同士は47人とある。一人足りぬようだが?」

「一人は脱落いたしました。吉良邸に向かう時にはおりましたが、その後、どこへ行ったものやら…」

※ここまでに抜けた義士
寺坂吉右衛門→広島 浅野大学のもとへ?
吉田忠左衛門→幕府大目付・仙石伯耆守邸へ
冨森助右衛門→幕府大目付・仙石伯耆守邸へ

寺坂吉右衛門は浅野大学へ報告という任務をおびて一行を離脱したと言われていましたが、近年、単なる「蓄電」(逃亡)だったという説が有力になっています。

「そうか。まあよし…改めて、全員そろって、仙石邸に参られるがよい」

「かしこまりました」

泉岳寺の赤穂義士たち

赤穂義士たちは泉岳寺ですぐに切腹を命じられると思っていましたが、そうはなりませんでした。今後の処分も決まらないまま、赤穂義士たちは夜の8時ころまで泉岳寺に留め置かれます。

討ち入りでボロボロになった刀を研ぐ者、家族に手紙を書く者、また泉岳寺には150人からの修行僧がいましたが、彼らがひっきりなしに義士たちを見に来て、どんなだったですか、討ち入り、怖かったでしょうねえ、話をきいたり、サインを求めてきたり。まるでヒーロー扱いでした。

泉岳寺では義士たちに食事の用意をはじめました。

すると、吉良上野介の首を討ち取った間十次郎が、包に巻かれた吉良上野介の首を持ってきて、包を解きます。

「とくとご覧あれ。この首、見納めでござるぞ」

間十次郎は両手で吉良の首を持って義士たちに見せびらかした後、寺が用意した茶壺に吉良の首を据えて、そのまま血まみれの手で箸を取って、食事をはじめました。

そこへ、泉岳寺の改舟という僧が酒を運んできます。

「肴がございませんが…」

すると義士たちは「肴ならここにある」と、首のすえられた茶壺を指さしたということです。

午後8時過ぎ、44人の赤穂義士は泉岳寺の僧十数人に守られながら、愛宕下の仙石邸に出発しました。

吉良の首

その後、泉岳寺では吉良上野守の首を箱に入れて、大切に保管しました。箱には大石内蔵助の実印つきの封がほどこされ、屏風で囲って、修行僧が寝ずの番をしました。

やがて吉良家から泉岳寺に対し、前主君吉良上野介の首を返還せよと要求してきます。。すぐに返還ということになり、12月16日の夜8時頃、泉岳寺の二人の僧が首をおさめた箱を本所の吉良邸まで運びました。

吉良邸では、家臣たち40人ほどが門前から玄関まで並び、平服して前主君の首を迎えました。

「これは…」

二人の僧は思わず息を飲みます。なにしろ討ち入りはつい昨夜のことでした。屋敷は酷い有様です。

「では我々はこれで…」

「あいや、待たれよ」

二人の僧は首を渡すとさっさと帰ろうとしますが、吉良家の家臣に呼び止められ、座敷に通されます。廊下にはうすべり(縁のついたござ)が敷いてありましたが、ぬるっと、足の裏に血がつきました。

「どうぞこちらへ…」

通された座敷には火鉢が置いてあり、強烈なニオイが漂っていました。血のニオイでした。

「あのう…昨夜討たれた御家来衆の御遺体は…」

「この隣の部屋に、十七人ぶん、置いてあります」

「ひッ…!」

「首の受領書が届くまで、湯漬けでも召し上がっていてくだされ」

「は…はあ…」

湯漬けには血のニオイが移っていました。

「ええいヤケクソだ!」

二人の僧は、飲み込むように湯漬けをかきこみます。後々まで、その味は忘れられなかったことでしょう。

その後、吉良の首は外科医によって胴と縫い合わされ、万昌院(現 東京都中野区上高田)に葬られました。

四大名に預かり

赤穂義士46名への処分はひとまず保留となり、4つの大名家の江戸屋敷に分けて預かりとなります。

肥後細川家へ大石内蔵助ら17名、伊予松山松平家へ大石主税や堀部安兵衛ら10名、長州毛利家へ前原伊助ら10名、三河岡崎水野家へ間十次郎ら9名が預かりとなりました。

一人失踪した寺坂吉右衛門に対して、厳しい追求は行われませんでした。仙石伯耆守のはからいと思われます。四十七士の中で唯一、足軽身分であったことも関係しているでしょうか。寺坂はその後、伊藤家、山内家という二つの武家に奉公し、十代将軍家治の世、83歳まで生きて、四十七士の中で唯一、天寿をまっとうしました。

細川家では、大石内蔵助ら17名を客人として丁重にもてなしました。

「かかる勇士を預かることは大変な名誉である」そう言って藩主細川綱利は自ら義士たちに対面。19名の接待役をつけました。

その中に肥後山鹿の人・堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん)は義士たちに同情的で、家族への手紙を取り次いだりしました。

また、義士たちから討ち入り前後の事情を聞き取り、それを書き留めました。

食事は毎日、豪華でした。藩主と同じニ汁五菜(汁物2品とおかず5品)、上戸には酒が、下戸には甘酒がふるまわれ、昼は茶菓子。夜食にはうどんが出るという有様でした。義士たちはいい加減胃にもたれてきました。

「御家老、なんとかしてくださいよ」
「ううむ…ありがたいことだが、さすがにここまで来るとな」

そこで大石内蔵助は、接待役に申し出ます。

「我々は浪人生活が長かったものですから、粗食に慣れております。飯は玄米とイワシでじゅうぶんです」

「左様でございますか。では料理人にそう言っておきましょう」

しかし料理人たちは、

「食事のことは上から命じられていますので、殿の許可がなければ変えることはできません」

そう言って断れたばかりか、食事はかえって豪華になりました。

また大石内蔵助は大変な寒がりで、いつもこたつに入って酒を飲みました。寝る時は、旧主浅野内匠頭の北の方・遥泉院からいただいた頭巾をかぶって寝ました。その様子をみて、他の義士たちはクスクス笑いました。「昼行灯」の評判は、預かりになってからも伊達ではなかったのです。

ある晩、接待役の堀内伝右衛門が義士たちに呼ばれて部屋に行ってみると、20代から30代の数名が待っていました。

「間もなく処分も決まるであろうから、この世の名残に芸つくしを披露いたしましょう」

そう言って、余興大会が始まりました。若い義士たちは歌舞伎や狂言の口真似をして、おもしろおかしくやってみせました。

それを隣で聞いていた年配者たちは苦笑しながら、

「明日は大石に頼んで手錠をかけてもらいましょう」

とつぶやいたとか。預かり生活の中にはそんなほのぼのした場面もありました。

全員切腹

翌元禄16年(1703)2月4日午後2時頃、浪士たちが収容されている江戸の四つの屋敷に、それぞれ幕府からの上使(将軍の使い)が到着します。

「全員切腹」

細川家下屋敷では幕府の上使が大石内蔵助らにそう伝えます。大石内蔵助は、

「どのような処分でも受け入れなければならぬところ、切腹とは…
同士を代表し、感謝いたします」

「うむ…」

そこで上使は大石内蔵助に近寄り、小声で言いました。

「吉良家は改易と決まりましたぞ」

「!!」

大石内蔵助は別室に下がると、他の16人の義士たちにこの事を告げました。

「おお!吉良家断絶!」
「我らの働きはムダではなかった!」

義士たちは涙を流して喜びあいました。

その後、大石内蔵助は当主・細川綱利に拝謁し、

「今日までのご親切、お礼の申しようもございません」

深々と頭を下げました。

その後、内蔵助は堀内伝右衛門に対し、養子覚運への伝言を頼みます。

「天気もよき今日、父は晴れ晴れした気持ちで死に赴いたとお伝えください」

切腹は、細川藩下屋敷大書院の前庭にて、午後4時ころから行われました。5時ころには全員が果てました。大石内蔵助享年45。

泉岳寺 赤穂義士の墓
泉岳寺 赤穂義士の墓

泉岳寺 大石内蔵助の墓
泉岳寺 大石内蔵助の墓

その後、吉良家は使いの言った通り、知行地を没収され、改易となりました。

参考文献
財団法人中央義士会『忠臣蔵 四十七義士全名鑑』駿台曜曜社
中島康夫『大石内蔵助の生涯 新説・忠臣蔵』三五館
財団法人中央義士会『赤穂義士の引揚げー元禄の凱旋』街と暮らし社
谷口眞子『赤穂浪士と吉良邸討入り』吉川弘文館
『週刊ビジュアル日本の合戦 No.22 大石内蔵助と吉良邸討ち入り』講談社総合編纂局
山本 博文『東大教授がおしえる 忠臣蔵図鑑』角川新書

解説:左大臣光永