大石内蔵助07 円山会議
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連続して「大石内蔵助・忠臣蔵」について語っています。
本日は第七回「円山会議」です。
第一回「刃傷 松の廊下」
祇園祭を見る
元禄15年(1702)6月。内蔵助は息子の大石主税(おおいし ちから)とともに祇園祭を見に行きます。にぎやかなお囃子の音。夜の四条や河原町の華やかさ。
但馬豊岡の実家にいる妻に「お前にも見せてやりたかった」と手紙を送りました。
7月5日、実家の石束家で、男子を出産します。三男の大三郎です。
「おう、生まれたか…」
山科で、内蔵助はその知らせを受けました。今すぐにでも豊岡に飛んでいきたい。妻と幼子の顔を見たい…しかしそれは、かなわないことでした。
大学への処分決まる
7月18日、幕府は評定所に浅野大学と親族の浅野左兵衛を召し出し、処分を告げました。
「閉門は許すが、浅野大学は広島藩に差し置きとする」
すなわち、兄内匠頭がおこした刃傷事件に連座して閉門となっていた、それは許すが、今後は広島の浅野本家に家族ともども預けて、家禄は与えない、と。
(ダメであったか…)
刃傷事件以来、いきりたつ同志たちを抑え、あらゆる手段をつかって、赤穂浅野家復興のために動いてきたのに…すべては水の泡となりました。
ここに赤穂浅野家再興の望みは、完全に途絶えました。
内蔵助は改めて決意しました。
「討ち入り以外に、無い」と。
円山会議
元禄15年(1702)7月28日。
大石内蔵助は、京都円山安養寺(あんにょうじ)の塔頭「重阿弥(じゅうあみ)」に、おもだった赤穂浪士19名を招集します。
「念願であった赤穂浅野家再興は、もはや成らぬと決まった。この上は、やることは一つ。吉良上野介の首を討つ」
「おお!」
「ああ!」
ようやく立ち上がってくださったかと、感涙にむせぶ赤穂浪士たち。
はじめて会議に参加した主税が、父と皆のようすを、誇らしく見つめていました。
神文返し
円山会議が行われた時点で、同志の数は120名ほど。彼らは、家来や親兄弟にも他言しないこと、もし約束に反すれば神罰を受けることを「神文(しんもん)」にしたためて、内蔵助に提出していました。
しかし…内蔵助にいわせれば120人は多すぎました。志のあやふやな者を、ふるいにかける必要がありました。
そこで、内蔵助は、貝賀弥左衛門(かいが よざえもん)・大高源五の二人に命じて、神文を提出した同志たちに、突き返させました。
「大学さまの処分が決まったのに、大石殿は討ち入りをしないようだ。もう神文は不要であるので、お返しする」
そうか、とアッサリ受け取った者はそれっきりにして、なんと情けない。大石殿はふぬけかと憤り神文を受け取らない者には、実はと切り出して、討ち入りの決行を告げました。
こうして、気持ちのあやふやな者をふるいにかけた結果、70名ほどが離れていきました。残ったのは50人ほど。
大高源五は申し訳ない気持ちで内蔵助に結果を伝えました。なにしろ半分以下になってしまったのです。しかし内蔵助は「そうか」といってしばらく考えた後、
「源五よ、これでじゅうぶんだ」と答えました。
隅田川の宴
しかし。円山会議の後も、堀部安兵衛ら江戸の急進派と、上方の穏健派の間には温度差がありました。
8月12日、江戸の同志たちは隅田川に屋形船を浮かべました。中秋の名月を見る、風流の会というのが表向きでしたが、実は血判状をつくるのが目的でした。
隅田川
船が動き始めると、堀部弥兵衛がいいます。
「諸君、いよいよ決行である。ついては同志の結束を確かめるため、血判状を作りたい」
おお望むところだと、皆小指の先を切って、思い思いに血判を押しました。それから名月を肴に酒宴となります。
ワイワイと盛り上がります。酒がまわってくると、
「大石殿は、いつ江戸に来られるのだ。きけば祇園で毎晩遊び呆けているというではないか」
「それは、大石殿とて考えがあるのであろう。遊び暮らしているようで、綿密な計画を練っているのであろう」
しかし、そう言っている堀部弥兵衛自身、ふと不安になりました。
このまま大石殿が江戸に来なければ、せっかくまとまっていた同志の結束が、崩れる。そこで思い切りおどけて、言いました。
「ああ私は果報者だ。安兵衛というよき婿を得て、同志の皆と討ち入りができる。これが果報といわずして何であろう」
それで、なごんだ空気になり、その場はおさまりました。
京入り
元禄15年(1702)閏8月1日、内蔵助は山科の邸宅を引き払って、京四条金蓮寺の塔頭梅林庵に入ります。
花遊小路(金蓮寺梅林庵跡付近)
梅林庵から祇園は目と鼻の先。山科にいた頃からつづいていた祇園通いはいよいよ派手になり、連日連夜、遊びまくっている、ように見えました。
赤穂でのうて阿呆浪人
大石軽うて張り抜き石
などと、からかわれました。
吉良家では当初、内蔵助の動きを警戒していましたが、どうやら大したことないらしい。大石はただの腑抜けだ。仇討ちなど、できるわけがないと、警戒をゆるめていきました。
大石主税、江戸へ
9月に入っても内蔵助はいっこうに動きませんでした。すでに上方の浪士たちは次々と江戸入りしているというのに。
「大石殿はなにをやっているのだ!」
「祇園通いがすぎて、本物のふぬけになってしまったのではないか」
江戸からは、ワアワア言って手紙を送ってきます。息子の大石主税は心を痛めていました。
「江戸では父上のことを腑抜けだ、昼行灯だと言っています。ひどいです」
「まあこれだけ遊び歩いておればな」
「私には父上のご真意はわかっております。どうして江戸の連中はわからないのでしょう」
「主税、熱くなるな…」
「これでは同志の結束が崩れます。私が一足先に江戸に向います」
そう言い出したので、内蔵助は主税に間瀬久太夫(ませ きゅうだゆう)、茅野和助(かやの わすけ)、大石瀬左衛門(おおいし せざえもん)らをつけて、江戸に送り出しました。
主税一行は9月24日に江戸につき、日本橋の旅籠屋「小山屋(おやまや)」(日本橋石町三丁目)に荷をおろしました。主税は名を「垣見左内(かけひ さない)」と名乗り、「近江国の浪人で訴訟のために江戸にやってきた」と宿の主人に説明しました。
以後、この小山屋が、討ち入りまでの総司令部となります。
次回「大石内蔵助・忠臣蔵(八)討ち入り前夜」に続きます。