大石内蔵助06 第一次江戸下向

こんにちは。左大臣光永です。

先日、熊本市内の「梶尾温泉」に入ってきました。粉雪の舞い散る中、露天風呂につかっていると、垣根をへだてて隣の会話がきこえてきました。

主婦の仕事が、いかに大変で、忙しく、立派かということを、延々と話していました。

話の内容よりも、あんなにも長々と、一秒も止まらずに、情熱をこめて語り続けられることに関心しました。

しかも熊本弁で、なんとなく愛嬌があって、よかったです。

連続して「大石内蔵助・忠臣蔵」について語っています。

本日は第六回「第一次江戸下向」です。

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第一回「刃傷 松の廊下」

堀部安兵衛らの焦り

江戸の急進派、堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛はジリジリ焦っていました。

「明けわたしの時は一歩譲り申した。だがもう殿が切腹されてから100日も過ぎています。いつ討ち入りなさるおつもりか」

そういった文面で、安兵衛らは山科の大石内蔵助のもとに、しばしば手紙を送ってきます。

内蔵助は、

「あくまで大学さまの閉門解除・浅野家再興が先である」

そう言って反論しますが安兵衛らは内蔵助を急き立てます。

「たとえ大学さまによるお家再興がかなったところで、兄の仇討もできないでは人前には出られぬと江戸ではもっぱらの評判です。だから、なんとしても上野介を討ち取らねばなりません」

安兵衛らの手紙はなかなかに鼻息荒いものでした。

(困ったものだ…)

このままでは三人だけでも討ち入りをやらかすかもしれない。お家再興を第一に考えねばならない時に、それはまずい。

内蔵助が頭をかかえているところに、またも手紙を送ってきました。

今度は吉良邸移転の知らせでした。

去る8月19日、それまで丸の内の呉服橋(東京都中央区日本橋)にあった吉良邸が、本所一ツ目(東京都墨田区両国。後に本所松坂町)に移転したというのです。


吉良邸跡

安兵衛らは、これぞ吉良を討つのに絶好の機会だというのです。

なぜなら、呉服橋ならば江戸城の領域である。ここで討ち入りをすれば御公儀への反逆ということになる。しかし本所であれば江戸の外である。反逆にはならない。吉良邸が移転になったのは、御公儀がわれらに早く仇討ちをせよと促しているのであると。

「まったく、安兵衛にも困ったものだ…」

九月下旬、内蔵助は原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の三人を江戸に派遣します。

「安兵衛たちを説得してくれ。今は討ち入りの時期ではない。来年、殿の一周忌が来るころには大学さまの処分も決まろう。それまで待てと言ってくれ」

原惣右衛門はもと300石取りの足軽で54歳。浅野内匠頭切腹を赤穂城に知らせた人物です。内蔵助が信頼する人物でした。

ところが原惣右衛門らは江戸につくと安兵衛らと意気投合し、かえって内蔵助に早くの江戸入りをせかしてくるようになります。

「なんたることだ…」

つぎに、進藤源四郎と大高源五を江戸に遣わします。進藤源四郎は51歳。内蔵助の親類筋で、内蔵助が山科に土地を求めるとき、保証人になった人物です。大高源五は茶事や俳諧をたしなみ、宝井其角の弟子となったことで有名です。

「今回はうまくいくだろう。まさか取り込まれることはあるまい」「

しかし、

江戸で堀部安兵衛と会うと、進藤源四郎と大高源五はすっかり意気投合し、討ち入り派にまわってしまいました。さらに武林唯七も加わり、討ち入りは来年の内匠頭一周忌前後と決めてしまいました。

堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の連名で、内蔵助に手紙を送ってきました。

「討ち入りは来年3月の、一周忌前後と決めました。進藤どのたちも、張り切っておられます。大石殿もはやくいらしてください」

第一次江戸下向

「困ったものだ…」

とうとう内蔵助自ら江戸に出ていって、急進派の説得に当たるはめになります。

元禄14年(1701)10月20日、大石内蔵助は奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門ら、四人の元赤穂藩士をつれて山科を出発。初冬の東海道を下り、11月3日、江戸に入ります。

宿所は芝三田松本町(港区芝三丁目)の、元赤穂藩出入り業者、前川忠太夫宅に入ります。

表向きの用事は、

泉岳寺への墓参り
浅野家一門への挨拶
目付・荒木十左衛門へのお礼

でした。しかし吉良邸では大いに警備を厳重にしました。大石内蔵助みずからが吉良邸討ち入りに、乗り出してきたと。しかし内蔵助にはもちろん、この時点で討ち入りするつもりはありませんでした。

11月10日、江戸の同士を集め、会議を開きます(江戸会議)。堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛、原惣右衛門、進藤源四郎らの急進派が、集まりました。

当然の流れとして、江戸急進派と、上方穏健派の間で激しい言い争いとなりますが、結局、内蔵助は急進派に押し切られてしまいました。

大学さまの処分を待つのは来年の3月14日まで。

それをすぎてはっきりしない時は、討ち入りをすると、約束させられてしまいました。

赤坂南部坂の密談

さて今回の江戸下向には、急進派の説得のほか、もうひとつ大事な目的がありました。旧主浅野内匠頭の未亡人、瑤泉院(ようぜんいん)(あぐり姫)とその用人である落合与左衛門に会って、瑤泉院の化粧料として預かっている690両を、討ち入りのための資金として使う、許可を得ることでした。

11月14日、内蔵助は赤坂南部坂に瑤泉院をたずねます。

「大石殿、なんとまあお久しい…」

「瑤泉院さまもご健勝のご様子、なによりにございます」

「していかがされますか、今後のこと」

「討ち入り決行、ということで同士と話がつきました」

「おお!」

「ただし、時期は慎重に選ばなければなりません」

「もちろん、それはもちろんじゃ」

内蔵助は瑤泉院(ようぜんいん)と落合与左衛門に覚悟のほどを打ち明け、690両の預り金を、討ち入りのための資金として使う許可を得ました。瑤泉院は内蔵助の労をねぎらい、内蔵助に茶縮緬の丸頭巾を与えました。

内蔵助は討ち入りの時も、その後、細川家に預かりになってからも、この丸頭巾を大事にかぶっていました。

そしてこれが、瑤泉院と内蔵助の今生の別れとなりました。

11月23日、内蔵助は江戸を後にします。山科に戻ったのは12月5日でした。

吉良の隠居

吉良上野介は前々から幕府に隠居を願い出ていました。それは、お咎めがなかったとはいえ、江戸中で悪口を言われるし、幕府からは屋敷替えを命じられるし、赤穂浪士に命を狙われている危険もあったためでした。

12月11日、幕府は上野介の願いを容れ、上野介の隠居と、養子の義周が家督を継ぐことを認めました。

これはつまり、内蔵助ら赤穂浪士の嘆願していた「上野介への処分」は「ない」ということでした。

江戸の急進的な赤穂浪士たちはざわめきます。

「もはや猶予はない。大学さまの進退いかんに関わらず、討ち入りをすべきである。うかうかしていると上野介は米沢に逃げてしまう。そうなれば上杉家に保護されて、もう手が出せなくなる」

そういう手紙を、さかんに内蔵助のもとに送ってきます。

年明けて元禄15年(1702)1月9日、原惣右衛門と大高源五が、江戸から山科に来て、内蔵助に詰め寄ります。やるなら今です。今しかないと。11日には、内蔵助の叔父である小山源五右衛門、もと京都留守居役の小野寺十内、進藤源四郎も駆けつけて内蔵助に詰め寄りました。

しかし、内蔵助は慎重でした。

「急いては事を仕損じる。今はまだ、大学さまの安否を待つべきである」

そう言って、3日後の1月14日には、山科の瑞光院に、旧主内匠頭の墓参りをしました。

萱野三平

1月14日夜、悲痛な事件がありました。萱野三平が大坂萱野村の自室で、みずから命を絶ったのです。28歳でした。萱野三平といえば、刃傷事件を早馬の使者で赤穂に伝えた人物です。

仇討ちに加わることを願い、両親に、江戸に下ることを願いました。しかし父萱野重利は三平を浅野家に推挙した大嶋伊勢守の手前、息子を江戸に行かせては面目が立たないと、三平の江戸行きを許しませんでした。

その上、大嶋家へ任官の話がまとまりました。忠孝のはざまで思いつめた三平はついに自ら命を断ったのでした。

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」

晴れゆくや日頃心の花曇り  涓泉(けんせん)

大阪府箕面市には萱野三平旧邸長屋門が残り、大阪府の史跡に指定されています。

山科会議

2月15日。

内蔵助は上方の同志を山科に集め、会議を開きます。いわゆる「山科会議」です。

「せめて三回忌までは待つべきである」

「な!」

「大石殿、正気ですか!」

「そこまで待ってからでも遅くはない。時期がどうあれ、必ず決行する」

「そんなこと言ってたら、上野介は米沢に逃げてしまいます。そうなってからではどうにもならんと言ってるんですよ!」

「昼行燈にもほどがある。大石殿、あんた本当は討ち入りなんてやる気ないんだろう!」

大いに紛糾しましたが、吉田忠左衛門が皆をなだめました。

「この上は、大石殿の忠義を信じ、決行の日を待とうではないか」

それで皆、しぶしぶ引き下がりましたが、内蔵助の態度には不満でした。

大高源五は江戸の堀部安兵衛に手紙を送り、

「上方で討ち入りに賛同する者が少ないので面目ない。これでは上方侍の面目が立たず、安兵衛らにも申し訳ない」と書いています。

山科の別れ

内蔵助は、自分が死んだ後のことをよく考えていました。

内蔵助には妻理玖との間に、男子二人、女子ニ人がいました。長男を松之丞、元服して主税(ちから)、次男を吉千代、長女をくう、次女をるりといいました。そのほか妾との間に、りよという女子がいましたが、幼くして死にました。また覚運という男子を養子にしていました。

大石内蔵助 系図
大石内蔵助 系図

次男の吉千代はすでに理玖の実家である石束(いしづか)家にやっていました。次女るりも、内蔵助の従兄弟の進藤源四郎のもとに養女に出していました。

長男の松之丞は昨年12月に15歳で元服させたばかりでした。

「主税、父は近く、母を離縁せねばならぬが、お前はどうする。母についていくか」

「父上、なにをおっしゃいますか。亡き殿の恨み、それがしとて片時も忘れませぬ。大事に加わらせてください」

「死ぬぞ」

「もとより覚悟の上です」

「わかった。主税、頼みにしておるぞ」

「はい!」

内蔵助は長男の大石主税を討ち入りに参加させることにしました。

妻理久と長女くうは、但馬豊岡の実家にもどすことにしました。

「では、あなた」
「ああ、くれぐれも無事で」

元禄15年(1702)4月15日、理玖は長女くうを伴って、山科から但馬豊岡の実家へ向かいました。これが今生の別れとなりました。この時理玖は懐妊していました。

次回「大石内蔵助・忠臣蔵(七)円山会議」に続きます。

解説:左大臣光永

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