大石内蔵助05 さらば赤穂

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連続して「大石内蔵助・忠臣蔵」について語っています。

本日は第五回「さらば赤穂」です。

第一回「刃傷 松の廊下」

明け渡し前夜 三度の嘆願

元禄14年(1701)4月16日、赤穂城引き渡しのため、目付の荒木十左衛門と榊原采女が赤穂に到着。翌17日、代官の二人も到着。

赤穂城
赤穂城

ものものしい警戒態勢でした。

備前と赤穂の境近くには松平伊予守綱政の兵600が、赤穂城をのぞむ播磨灘には松平讃岐守頼常の船800艘が待機し、

赤穂の東には明石城主松平若狭守直明の兵。そのほか淡路や因幡の城からも、いざとなったら兵を出せるように構えていました。いざ赤穂藩が指示にしたがわず、戦になった時のためです。

4月18日、御目付・御代官そろって、明日の引き渡しに向けて赤穂城内を検分することになりました。検分は本丸・二の丸・三の丸から侍屋敷にまで及びました。

本丸の検分がおわって御目付・御代官が内匠頭の部屋で休んでいると、大石内蔵助が平伏して、訴えました。

「城の明け渡しはとどこおりなく進むよう、家来たちに命じております。内匠頭のやらかしたことについては言いようもありませんが、浅野家は初代長重が家康公・秀忠公に幼少のころより奉公し、格別の恩顧を賜っております。今、内匠頭の弟、浅野大学が閉門になったまま城を離れることは無念にございます。なにとぞ、大学の閉門が解け、ふたたびご奉公できるよう、おはからいください」

目付たちは無言でした。次に大書院を検分して、休憩に入った時、またも内蔵助は同じことを訴えました。このときも目付たちは無言でした。

すべての検分を終えて、玄関で休んでいると、内蔵助はお茶を進めた上で、

「なにとぞご両人のお力で、浅野大学の閉門が解けますよう、おはからいください」

三たび訴えました。この時、代官の石原新左衛門が、目付の荒木十左衛門に言いました。

「内蔵助殿の訴え、もっともと思えます。江戸に戻りましたら老中にお取次ぎなさっては」

「うむ…だが…采女殿はどう思われます」

「よいのではないですか」

「わかりました。では、そのように老中に取り次ぎましょう。大石殿、ご家来衆にもそう伝えなさい」

「ありがたきしあわせ」

検分がすんだ後、荒木十左衛門は宿に大石内蔵助を呼び出し言いました。

「このたびの城内の整理・清掃・ご家来衆の謹慎。まったくもって感じ入り申した。嘆願の件は、御老中に書き送りました。ご安心ください」

「はっ、返す返すもありがたきしあわせ」

明け渡し当日

元禄14年(1701)4月18日の夜、城の受け取り役である脇坂淡路守安照(わきざかあわじのかみ やすてる)が4500の軍勢を率いて大手門から入ります。翌朝、同じく受け取り役の木下肥後守公定(きのしたひごのかみ きんさだ)が1500の軍勢を率いて塩屋門から入ります。

本丸で大石内蔵助と奥野将監が受け取り役の脇坂・木下を迎え、ついで大書院で明け渡しの儀式が行われました。

明渡しはとどこおりなく進みました。午前9時すぎには終わっていました。内蔵助の周到な準備のおかげでした。

「本日の城明けわたしの件、逐一感じ入った」

脇坂淡路守も、木下肥後守も、内蔵助の手際のよさをほめました。

すべてを済ませると、内蔵助は残った数十人とともに三の丸の清水門に向かいました。すでに浪人となった彼らは大手門から出ることは許されませんでした。

清水門を出て、あらためて大手門外側にまわり、赤穂城を見上げます。

祖父大石良鉄以来、3代57年間にわたってお仕えしてきた赤穂城。さまざまな感慨がこみ上げ、内蔵助は涙がこみあげるのをぐっと抑えました。

おせどの内蔵助

内蔵助は赤穂城明け渡し後もしばらく赤穂領内に留まりました。尾崎村の仮住まい「おせど」から遠林寺に通い、残務処理をやっていたのです。

おせど跡
おせど跡

その残務処理も5月21日までに大方おわりました。

この頃、内蔵助は左腕に腫れ物ができて、高熱を出して、寝込んでしまいました。息子の大石主税にもうつりました。

病の床につきながらも内蔵助は、浅野家再興のためのさまざまな動きを進めていました。

遠林寺の佑海和尚に江戸に行ってもらい、幕府に浅野家再興を嘆願してもらいます。

原惣右衛門を京都に遣わし、縁のある普門院(六波羅蜜寺)の義山和尚に浅野家再興を訴えました。

また、赤穂藩健在のとき、塩田業者に貸していた貸付金の回収を進めます。貸付金の総額は五千四百七十両ほどでした。しかしすでに改易となった赤穂藩に金を返そうという者はすくなく、結局返済の見込みが立ったのは六百九十両ほどでした。

それでも、無いよりはマシでした。回収した貸付金はすべて、後日、討ち入りのために使われることになります。

6月4日に遠林寺を引き払います。

6月25日、尾崎村の伊和津比売神社に参拝し、旧主浅野内匠頭長矩に別れを告げると、内蔵助は海路大坂へ上ります。妻りく、長男松之丞(主税)、次男吉千代、長女くう、次女るりの5人は、大坂の天神祭(てんじんまつり)を見物するため、一足先に大坂に入っていました。

山科の内蔵助

6月28日、内蔵助は家族を引き連れて、京都郊外山科の西野山村(京都市山科区西野山)に入ります。以後、1年4ヶ月を内蔵助は山科に過ごすことになります。

岩屋寺
岩屋寺

現在、その跡地は岩屋寺という寺になっています。

(なぜ山科か?大石家は俵藤太秀郷の子孫で、近江国の栗太郡大石庄に土着しました。なので京都には親類が多くありました。西野山村には叔母がいました。叔母の夫である進藤源四郎(しんどうげんしろう)はもと400石取りの赤穂藩士でした。そこで大石内蔵助はこの進藤源次郎を保証人に山科に土地を手に入れたようです)

名前も、仲間内の連絡用には池田久右衛門と称します。池田は母方の姓です。

「なんだありゃ?」
「気骨のある武士ってきいてたけど、やっぱり昼行灯だねえ」

内蔵助の山科での暮らしはまさに「楽隠居」のそれでした。金を惜しまず家を増築し、好きな牡丹を植えて、田畑を耕しました。近所の人々とも気さくに交流しました。しばしば京に出て、祇園や島原、伏見で、遊びまわりました。

大石の 蔵とはかねて 聞きしかど よくよく見れば きらず蔵かな

大石は 鮨の重しになるやらん 赤穂の米を くいつぶしけり

などと、内蔵助のダメっぷりを揶揄する落首が流行りました。

時を待つ内蔵助

表面には堕落をよそおいながらも、内蔵助は浅野家再興へ向けてさかんに動いていました。

赤穂遠林寺の佑海和尚にたのんで、江戸の鏡照院(きょうしょういん)に向かわせていました。鏡照院の住職は、当時政界に力を持っていた護国寺の僧・隆光と知り合いであったのです。

隆光といえば、将軍綱吉が子供ができないと相談したところ、将軍は戌年生まれだから犬を大事にしなさいといって、生類憐れみの令が始まったことで有名です。もっともこれは俗説です。実際あったことではないようです。

内蔵助はこの隆光から、将軍にはたらきかけてもらおうとしたのです。

また、目付の荒木十左衛門と榊原采女も、内蔵助との約束どおり老中に浅野家再興の嘆願書を提出してくれていました。そのことが浅野家の親類筋から内蔵助の耳に届いていました。

あとは側用人柳沢吉保。綱吉の側近中の側近であるこの人に渡りをつけられれば…浅野家再興はかなう。しかしそのためには多額の賄賂が必要でした。

内蔵助は江戸にいる佑海和尚に手紙を書き送っています。

「柳沢様に接近するには、家老と用人に取り入ってください。そのための金が必要なら、お知らせください」と。

内蔵助のねらいは二つ。

一つは浅野大学の再出仕による浅野家再興

一つは吉良上野介と養子義周の出仕停止

この二つがかなって初めて、旧主浅野内匠頭の無念が晴れると、内蔵助は考えました。

しかし、なかなかうまくいきませんでした。嘆願書を出したところで、それが将軍綱吉まで届いているかもわかりませんでした。

次回「大石内蔵助・忠臣蔵(六)第一次江戸下向」に続きます。

解説:左大臣光永

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