大石内蔵助04 大石内蔵助と堀部安兵衛
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連続して「大石内蔵助・忠臣蔵」について語っています。
本日は第四回「大石内蔵助と堀部安兵衛」です。
残務処理
赤穂城の引き渡しを決めると、大石内蔵助は残務処理にかかります。
4月14日、浅野家に関係する寺寺に、永代供養料として田畑や山林や現金を寄進します。たとえ藩がなくなっても、各寺には浅野家累代の墓があるのです。墓まで失われてしまっては御一門に申し訳ないというわけです。
花岳寺
浅野長重、長直、長友の位牌のある花岳寺、浅野長直夫人の菩提寺である高光寺、長友夫人の菩提寺である大蓮寺、浅野家の祈願所であった遠林寺(現存せず)などに、寄進しました。
また礼座勘定奉行・岡島八十右衛門に命じて、藩士たちに最後の給付金を支給します。いわば退職金です。
江戸幕府の歴史を見渡せば、取り潰しとなると自分のことだけを考えて領民のことを省みない家老もありました。
しかし大石内蔵助のやり方はまったく違っていました。
藩士や領民一人一人のその後の生活まで考えて、何一つ手落ちのない、配慮の深い残務処理でした。
片岡源右衛門ら赤穂を去る
しかし、無条件開城に納得できない者もありました。片岡源右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎らは、
「我らは格別の者である故、明け渡しも、籠城も、切腹も、拒否する。上野介を殺す以外には、ありえぬ」
そう言い残して、赤穂を去り、江戸に上りました。
堀部安兵衛らの帰還
元禄14年(1701)4月14日、堀部安兵衛、奥田兵左衛門(後の奥田孫太夫)、高田郡兵衛の三人が江戸から赤穂につきました。
「開城!そんなバカな」
「この上籠城などしては、大学さまにも浅野家にも迷惑がかかる。いったんは涙を飲んで開城するのだ」
「開城など、とんでもない。断固、戦うのだ!」
徹底抗戦を主張する堀部安兵衛ら武断派と、穏便に開城するという大石内蔵助との間で、意見は平行線をたどりました。
「まずは大学さまの処分が解けるまで待て。その後も上野介に何の処分もなければ、私にも考えがある。今回は内蔵助にまかせてほしい」
「納得できぬ!」
翌15日、赤穂領内の遠林寺に、残務処理のための事務所が置かれました。さっそく幕府に引きわたす武器の目録づくりや帳簿の整理が進められました。
おせど跡(残務処理中の内蔵助のすまい跡)
おせど跡(残務処理中の内蔵助のすまい跡)
そこへ、堀部安兵衛ら三人が出向いてきます。三人はここで赤穂藩士奥野将監(おくのしょうげん)を説得し、仲間に引き込もうとしました。奥野将監は、
「私も国家老と同じ考えだ」
「開城するというのか!」
「そうだ。だがそれはいったん従うというだけのこと」
「話にならん!」
ここでも平行線をたどりました。
中村橋の大石内蔵助と堀部安兵衛
4月16日、堀部安兵衛・奥田兵左衛門、高田郡兵衛の三人は、もう一度大石内蔵助に談判しようと、赤穂郊外の尾崎村に向います。この日は御目付衆が赤穂に到着する予定でしたので、内蔵助は中村橋まで迎えに出ていました。
堀部安兵衛ら三人が肩を怒らせて歩いていくと、向こうから大石内蔵助が近づいてきました。両者は無言で会釈して、そのまますれ違いそうになります。
堀部安兵衛が大石内蔵助とすれ違うまさにその時、さあっと全身の血の気の抜けるような、さすまじいものを感じました。
(この方は本気だ)
何の言葉も交わしませんでしたが、堀部安兵衛にはそれがわかりました。「吉良に処分がなければ、私にも考えがある」と言った、あの言葉は信じるに足ると。
高田馬場の決闘
越後新発田(しばた)藩浪人で、元禄元年(1688)19歳の時、江戸に出て、直心影流(じきしんかげりゅう)の剣客・堀内源左衛門(ほりうちげんざえもん)に剣を学び、その腕前は弟子第一とされました。
元禄7年(1694)2月21日、江戸高田馬場で、世を騒がせる事件がありました。伊予西条藩家臣、菅野六郎左衛門と村上庄兵衛が、ささいな口論から、果たし合いに到りました。
中山安兵衛は菅野六郎左衛門とは堀内道場の同門で、意気投合して叔父・甥の契を結んでいました。だから菅野六郎左衛門はこの時60歳近い老年でしたが、25歳の中山安兵衛に助太刀を頼みました。
芝居などでは、この日も安兵衛は朝から飲み歩いており、昼過ぎになって八丁堀の長屋にもどった所、叔父菅野六郎左衛門の手紙を見てびっくり。こうしちゃいられねえと朱鞘の太刀を腰に帯びて、尻を端折って、長屋を飛び出した。八丁堀から高田馬場まで約9キロの道のりを、ひたすら走る。
ようやく馬場下に来ると、酒屋がある。たまらず安兵衛、飛び込む。イッパイくれ。五合枡をぐぐっと飲み干し、勘定は置いとく。すぐその足で決闘場所へ。
しかし、
安兵衛が高田馬場に駆けつけた時、叔父はすでに血まみれで事切れていました。
叔父貴、すまねえ。俺が遅かったばっかりに。そこへ村上兄弟、あん?何だお前とすごむ。俺は菅野六郎左衛門が甥、中山安兵衛。義によって助太刀いたす。
ずばっ。
ずぶっ。
どすーーっ
ぐぶううっ
村上庄兵衛以下、四人を討ち取り、叔父の敵を取りました(3人とも8人とも)。
…ただしこれは講談や映画の話で、実際は堀部安兵衛は酒飲みではなく、決闘場所に遅刻したわけでもありません。菅野六郎左衛門といっしょに決闘場所に行きました。
しかし堀部安兵衛の武勇が江戸の町で評判になったのは事実です。
「安兵衛ってのはモノすごかったんだってな!」
「強いヤツがいたもんだ…」
目を光らせたのが、播州赤穂浅野家・江戸留守居役の堀部弥兵衛(ほりべやひょうえ/ほりべやへえ)金丸(あきざね)でした。
「ほう…そんなに強い者がいるのか」
「そんなに強いなら、ぜひ堀部家に養子として迎えたい」
安兵衛の剣術の師・堀内源左衛門などに働きかけ、しきりに養子に迎えようとします。
当の安兵衛は、中山家を抜けるわけにはいかないと断ります。しかし堀部弥兵衛は、
「ならば中山姓のまま、浅野家に仕えられるように、浅野内匠頭にかけあおう。住む所も自由でよい」
そこまで言われては断れない。安兵衛はついに養子になることを受け入れました。父子の契を交わし、200石を賜り、以後、堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえ たけつね)と名乗りました。
……
堀部安兵衛ら三人は赤穂城明け渡しに立ち会い、内蔵助と盃を分かち合い、再会を約束して4月22日、赤穂を後に江戸に向いました。
次回「大石内蔵助・忠臣蔵(五)さらば赤穂」に続きます。