大石内蔵助03 揺れる赤穂

こんにちは。左大臣光永です。三が日の最後、いかがお過ごしだったでしょうか?

私は熊本県山鹿市の目抜き通りに面した温泉に入ってきました。浴室に入ると薄暗い照明の中に黄色い灯りがぼうっと輝き、板張りと漆喰のかんじが、昭和のなつかしさを漂わせていました。

浴室の壁に、山鹿タクシーや山鹿もなかといった、地元企業の広告がかかっているのも、昭和のレトロ感あってよかったです。

前々回から13回にわたって、「大石内蔵助・忠臣蔵」について語っています。

本日は第三回「揺れる赤穂」です。

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急使、赤穂へ走る

鉄砲津の赤穂藩屋敷に急を知らせたのは料理人の次郎左衛門でした。

「えらいことになった!」

赤穂藩屋敷は上を下への大混乱となります。とにかく、事の次第を国許に知らせなければならない。そこで使者として選ばれたのが、38歳の早水藤左衛門と27歳の萱野三平でした。

元禄14年(1701)3月14日午後2時頃、早水藤左衛門と萱野三平は、内匠頭の弟である浅野大学の書状を持って江戸伝奏屋敷から早駕籠に乗り込みます。

東海道を一路、西へ。昼となく夜となく、飲まず食わずで籠を乗り継ぎ、3月19日午前6時、赤穂に到着し、赤穂城裏手の塩屋門から城内に入ります。

早水藤左衛門と萱野三平が赤穂についた時、井戸の水を飲み、一息ついてから赤穂城に登城したという、その井戸が、「息つぎの井戸」として残っています。

「御家老、御家老」

どんどん、

「何事だ。こんな早くに」

出てみると、二つの籠があり、早水藤左衛門と萱野三平の二人が這いつくばっていました。

「何事か」

「一大事にございます。これを…」

差し出された書状をすっと開き、読むうちに、大石内蔵助の顔からさあっと血の気が失せます。

これが第一報でした。江戸城中で藩主浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだこと。梶川頼照に取り押さえられたこと。とどめをさすことはできなかったこと。双方命に別状はないが、お上より騒動を起こさないよう申し受けている。国許に帰っても騒動を起こさず、待て」といったことが書かれていました。

「殿が吉良殿に刃傷。どういうわけか!」
「私も、詳しいことはわかりません」

大石内蔵助は取り乱しそうになるのをグッと抑え、たしかに、今は待つしかない。

「二人はとにかく休んでくれ。遠路ご苦労であった」

第二報は、足軽飛脚により、内匠頭の弟・浅野大学長広の手紙が届けられました。そこには赤穂藩の発行する藩札の処理について、指示が書かれていました。

藩札が停止になる。これはいよいよ、赤穂藩とりつぶしのサインと思われました。

「とにかく情報を集めなければ」

大石内蔵助はその日のうちに萩原文左衛門・荒井安右衛門の二名を急使として江戸に向かわせました。

ところへ城代家老・大野九郎兵衛が駆けつけ、

「いったい何事か」

大石内蔵助が無言で浅野大学の手紙を差し出すと、

「……ああ、もう赤穂藩はおしまいだ。殿はいったい何の恨みがあったか知らぬが、赤穂藩5万3000石のことを少しもお考えにはなられなかったのか」

「お黙りなさい大野殿。殿はそれらを承知の上で刃傷に及んだのである。そのご胸中を、思われよ」

夜10時。原惣右衛門(54歳)と大石瀬左衛門(25歳)により第三報が届けられました。

「無念でござる」

「即日切腹!そんなバカな!して、吉良殿はどうなったのか!」

この時点では、まだ吉良がどうなったかはわかっていませんでした。大石内蔵助はとにかく二人の使者を休ませ、ねぎらいました。

赤穂藩士たちの動揺

翌3月20日早朝、赤穂城太鼓楼から登城をうながす太鼓の音が鳴り響きます。

藩士たちは不安な表情で登城してきました。

「どうなるんだ」
「ただではすむまい」

本丸大広間にて、大石内蔵助は、集まった藩士たちを前に言います。


赤穂城 本丸御殿跡

「去る3月14日、殿は腹を召された」

ざわざわっ…

「して吉良殿は?」

「まだわからぬ」

「そんなバカな!」

「ここに江戸から届いた書状がある」

大石内蔵助は城代家老大野九郎兵衛に命じて、書状を読み上げさせました。

「去る3月14日、江戸城松の廊下にて、勅使接待役浅野内匠頭長矩、儀礼指南役吉良上野介に背後より切りかかり、刃傷におよぶ。よって即日、切腹申し付ける…」

書状は三通ありました。

一通目が国許で騒ぎを起こすなと戒めたもの。

二通目は浅野一門の責任を問うもの。

三通目は内匠頭の遺骸を受け取るよう浅野大学に命じた書状の写し。

この三通目を読み上げるころには、藩士たちは感極まって、あるいは涙を流し、あるいはぶるぶると震え出しました。

「かくなる上は全員切腹して果てるのみ」
「いやそれよりも、赤穂城に立てこもり、徹底抗戦すべきである」

がやがや、ざわざわ…

意見が割れます。そこで大石内蔵助、

「静まれい。今この状況であれこれ言っても始まらぬ。
次の知らせがくるまで、落ち着いてまて」

藩札の換金

「浅野家改易」

噂はすぐに城内に広がります。

「ほんとかよ。藩がなくなっちまうなんて!」
「俺たち、どうなるんだ!」

民百姓にまで動揺は広がりました。ことに彼らの心配は、藩札がどうなるのか、ということでした。藩札とは藩の中だけで流通する紙幣です。これが紙くずになると、無一文です。

大石内蔵助は、札座(さつざ)勘定奉行の岡島八十右衛門を呼んで、

「藩札を、六割で金銀に替えてやれ」

この時、藩札の発行額は1万2000両、赤穂藩の金庫には7000両ありました。だから、六割で、藩札を現金と引換えてやれというのです。

「しかし藩士の方々の藩札はどういたしましょう」

「それは仕方ない。本家や分家に借金して、なんとかしよう。藩札のために領民を苦しめてはならない」

(なんて大したお方だ。藩がつぶれるというのに領民のことを優先するなんて。昼行灯なんてとんでもない。やる時はやる方だ)

岡島八十右衛門はつくづく感心します。

こうして藩札が現金化されたことにより、民の動揺はおさまりました。

住居の手配

一方で内蔵助は自分の今後のことも考えていました。それは改易後のすまいのことです。

「京都近郊で、家族ですめる屋敷はないでしょうか」

京都の石清水八幡宮の塔頭・大西坊に手紙を書き、すまいを斡旋してくれるよう頼んでいます。

京は東西の情報が得やすく、潜伏活動をするにも何かと好都合と考えたのでしょう。結局、京都郊外の山科に隠居場所を求めることになります。

吉良上野介は生きている

一番の問題は、吉良上野介は生きているのか?死んでいるのか?ということでした。しかし江戸家老からの情報はなかなか入ってきませんでした。

大垣藩の戸田采女正(とだうねめのしょう)ら浅野家一門が、江戸家老に脅しをかけて、国許に情報を伝えさせないようにしていたためです。

吉良にお咎め無しとわかれば、赤穂は大騒ぎになる。

下手をしたら戦になりかねない。

連帯責任を取らされる。それを嫌って、浅野家一門が圧力をかけていたのでした。

しかし、いつまでも隠し通せるものではありませんでした。噂は赤穂に伝わってきます。

吉良上野介は生きている。

しかも、お咎めなしであると。

「何だそれは!」
「喧嘩両成敗ではないのか!」
「かくなる上は、ぜったいに城を明け渡すわけにはいかない!」

切腹か?無条件開城か?

3月26日、江戸家老からの早馬の使者が赤穂に届きました。赤穂城の明け渡しが決定し、近く幕府の目付として荒木十左衛門、榊原采女のふたりが派遣されることが伝えらます。

翌27日から三日間にわたり、大石内蔵助は赤穂藩士たちを赤穂城本丸にあつめ、今後どうするのか?議論させます。

大石内蔵助の言うことに、

「赤穂城の明け渡しとはいっても、まだお家再興の望みが消えたわけではない。いったん城を明け渡した後で、大学さまから幕府にかけあっていただこう。そのためは我ら一同、開城の折に大手門で切腹して、覚悟を示そう」

城代家老・大野九郎兵衛が、これに反論します。

「切腹など、御公儀に対する抵抗にほかなりません。浅野内匠頭の名が汚れます。それは忠義に似て忠義にほど遠い。やはり無条件で開城して、幕府の沙汰を待つべきです」

すなわち切腹案、無条件開城案、そのほか、城を枕に全員討ち死にする案、吉良上野介の首を取って無念を晴らす案に分かれ、

議論は紛糾しました。

結局、大石内蔵助の切腹案と、大野九郎兵衛の無条件開城案のうち、どちらかを選ぶことになりましたが、それでも結論が出ない。

原惣右衛門がたまりかねて、言います。

「大野殿は、結局、命が惜しいのであろう。腹を切るのが嫌ならさっさと退席されるがよい」

「拙者は命が惜しくて言っているのではない。切腹などしてはかえって御公儀の怒りを買うだけだと申しておる。どうでもわからんなら、勝手にするがいい」

大野九郎兵衛は怒って、立ち去りました。それを見届けると大石内蔵助は、

「わが意見に従う者は、誓書を持って集まってくれ。ではいったん解散」

再度、評定が開かれた時、集まったのは半分以下の100人ほどでした。

「よくご決心された。義を守るのが武士のつとめ。まずは江戸に嘆願書を送り、わられの思いをうったえよう」

嘆願書を江戸に送る

元禄14年(1701)3月29日、大石内蔵助は月岡治右衛門(じえもん)・多川久左衛門の二名を使者に立て、江戸に上らせます。

近く江戸から赤穂に派遣される予定の幕府目付、荒木十左衛門と榊原采女の二人に届ける書状をもたせてありました。その書状に言うことに、

「主君内匠頭が切腹をおおせつけられ、赤穂の城を召し上げられることは、一同恐縮の限りです。しかし我らは吉良殿は亡くなって、内匠頭は切腹になったと思っておりました。しかし事実はそうでなく、吉良殿は無事で、内匠頭だけが切腹となったとのこと。これでは家中の血気にはやる武骨者どもが、忠義のあまり、何をしでかすかわかりません。私ではとうてい抑えきれません。だからといって上野介殿を処分してほしいと申し上げるわけではございませんが、なにとぞ御目付さまのはからいで、さむらいどもが納得できるよう筋を立ててください」

丁寧な言葉の中にも、吉良の処分がないなら幕府との一戦も辞さないという凄みをきかせています。

4月4日、月岡・多川の二人は江戸につきます。しかし二日前の4月2日に荒木・榊原の両目付は江戸を出発した後でした。困り果てた月岡・多川の二人は、江戸家老に嘆願書を見せると、江戸家老は仰天して、これを浅野大学にも見せ、二人に戸田采女正のもとに行くよう指示しました。

戸田采女正は、

「こんな嘆願書を目付衆にわたすなど、とんでもない。もう処分は決まっているのだから、くつがえることはない。我々の立場まで悪くなるから、国許に帰って、おとなしく城を明け渡すように言え」

そう言って、その内容を書状にしたため、二人にもたせて赤穂に送り返しました。浅野大学からも、くれぐれも軽挙はつつしむべしとの言葉がありました。

4月11日、月岡・多川の二人はむなしく赤穂に立ち返ります。

大石内蔵助はすぐさま同士100人あまりを集めて、事の次第を報告します。

「嘆願書は通らなかった」

「なんです!」
「じゃあどうなるんですか!」

「嘆願書が通らなかった以上、切腹してもただの犬死である。さりとて…100人あまりでは戦っても勝ち目はない」

「ならば、吉良の首を取りましょう!」

「吉良邸に攻め込みましょう!」

「軽挙はつつしむべし。大学さまからもそう仰せつけられておる。ここで籠城などすれば、大学さまにも、浅野家御一門にも迷惑がかかる。ここはやはり、城を明け渡すほかないと思う」

「そんな!…」

「やはりそうであろう。最初からそうしていればよかったのだ」

城代家老大野九郎兵衛は自分の意見が通ったことに満足して、さっさと退席しました。しかし多くの藩士たちは不満に満ち、大石内蔵助もそれをよくわかっていて、苦しい立場でした。

「すまぬ…今は私にあずけてくれ」

内蔵助は深々と頭を下げました。

次回「大石内蔵助・忠臣蔵(四)大石内蔵助と堀部安兵衛」に続きます。

解説:左大臣光永

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