大石内蔵助02 内蔵助 前史

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前回から10回にわたって、「大石内蔵助・忠臣蔵」について語っています。

本日は第二回「内蔵助 前史」です。大石内蔵助とは何者なのか?大石氏の出自とあわせて、赤穂藩のおおまかな歴史も語ります。

出生

大石内蔵助良雄は万治2年(1659)、四代将軍家綱の時代、赤穂城三の丸大石邸に生まれました。父は赤穂浅野家筆頭家老・大石良鉄(よしたか)の嫡男・大石権内良昭(ごんないよしあき)。母は岡山池田家の家老池田由成(よしなり)の息女・球麻(くま)。

大石内蔵助像(赤穂 大石神社)
大石内蔵助像(赤穂 大石神社)

大石内蔵助の生まれる二年前の明暦2年(1657)正月には、江戸で有名な明暦の大火が起こっています。かつてない大規模な火事で、その後の江戸の町の構造そのものが変わるきっかけとなりました。

両国回向院(明暦の大火の犠牲者を供養)
両国回向院(明暦の大火の犠牲者を供養)

子供時代の大石内蔵助についてはよくわかりませんが、竹太郎とも松之丞とも呼ばれていました。

大石氏の祖先はむかで退治で有名な俵藤太秀郷で、その子孫が近江国栗太(くりた)郡大石庄(大津市大石東町)という山間の集落にすまい、大石氏を名乗りました。

四代目の良久の時、大石氏は足利義昭に従ったため、織田信長に討伐されそうになりましたが、なんとか生き延びて家は続いていきます。

8代目の良勝が18歳の時、常陸国笠間(茨城県笠間市)の城主・浅野采女正(うねめのしょう)に仕え、大阪冬の陣、夏の陣で手柄を立てて、家老に抜擢されます。この良勝の子の良鉄(よしたか)が大石内蔵助の祖父にあたり、浅野長直、長友、長矩の三代に仕えました。

良鉄の嫡男・大石権内良昭(ごんないよしあき)と岡山池田家の家老池田自成(よしなり)の娘の間に生まれたのが大石良雄です。

大石良雄14歳の時、父権内良昭が大坂で亡くなります。34歳でした。良昭は大石家の通り名である「内蔵助(くらのすけ)」を名乗る前に亡くなったので、大石良鉄は孫の良雄を養子としました。

この年良雄は元服して、「喜内(きない)」と名乗りました。

良雄は生まれついての、のんびり者でした。居眠りばかりして「昼行灯」と呼ばれていました。体は小さかったといいます。学問は京都堀川の伊藤仁斎に学び、浅野家に仕えた儒者で兵学者の山鹿素行から山鹿流軍学を学びました。山鹿流軍学は甲州武田信玄に仕えた山本勘助の流れをくみます。

山鹿素行像
山鹿素行像

剣術は讃岐国高松の奥村権左衛門に学びました。しかし免許皆伝を受けたのは34歳の時といいますから、のんびりしたものです。

国家老上席まで

延宝3年(1675)二代赤穂藩主・浅野長友(ながとも)が亡くなり、9歳の浅野長矩(ながのり)が家督を継ぎます。ただし長矩は生まれた時から江戸藩邸で育ち、国元の赤穂はまだ一度も行ったことがありません。この時、大石内蔵助は17歳でした。

2年後の延宝5年(1677)、大石内蔵助の祖父良鉄(よしたか)が亡くなると、内蔵助は祖父の遺領1500石をついで、家老見習いとなります。同時に大石家の通り名「内蔵助」をつけて、「大石内蔵助良雄」と名乗ります。「良雄」と書いて「よしたか」とも読むのは、祖父の「良鉄(よしたか)」にちなんだものです。

大石邸長屋門
大石邸長屋門

良雄に対する指導は祖父良鉄の弟の大石頼母が当たりました。2年の見習い期間を経て、延宝7年(1679)、大石内蔵助は国家老上席となりました。21歳でした。

翌延宝8年(1680)江戸では四代将軍家綱が亡くなり、綱吉が五代将軍に就任しました。

浅野長矩と阿久利姫の結婚

天和3年(1683)1月、浅野長矩と阿久利姫が結婚します。阿久利姫は三好浅野家五万石藩主・浅野因幡守長治の娘です。

この時、浅野長矩17歳、阿久利姫9歳。式は江戸の赤穂藩邸で行われました。内蔵助は国許にいたのでよそながら、二人の行く末を祈るばかりでした。

浅野長矩、勅使饗応役となる

天和3年(1683)2月、浅野長矩は幕府より勅使饗応役に任じられます。江戸幕府では毎年正月に将軍が朝廷に使者を送り、年始の挨拶をしました。朝廷では、そのお返しとして二月から三月にかけて勅使を江戸に派遣することになっていました。

勅使饗応役とは、その朝廷から江戸に派遣されてきた勅使を接待する役です。朝廷の故実やしきたりについての細かな知識が必要とされる、難しい役でした。

この年の接待は、江戸家老であった大石頼母の補佐により、乗り切ります。しかしその大石頼母は、この年の5月18、亡くなってしまいます。大石頼母は大石内蔵助の祖父の弟…つまり大叔父です。64歳でした。

赤穂藩の歴史

ここでざっと赤穂藩の歴史をいえば、

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに徳川家康が勝利すると、家康についていた池田輝政は、その功績として姫路52万石に加増・転封されます。

元和元年(1615)池田輝政は、五男の政綱(まさつな)に赤穂3万5000石を分与。ここに赤穂藩が生まれました。千種(ちくさ)川の河口に碁盤の目状の都市が築かれ、海に突き出したところに池田氏の館が建てられました。

しかし正保2年(1645)、池田政綱の養子、輝興(てるおき。池田輝政の実子)が、錯乱して妻子はじめ侍女数人を殺害する事件が起こります。ここに赤穂池田家は改易となります。その後に、常陸国笠間から移ってきたのが、5万3000石の大名、浅野長直でした。

以後、長直、長友、長矩と三代にわたり浅野家が赤穂をおさめます。

赤穂城
赤穂城

浅野長矩の赤穂入り

天和3年(1683)6月22日、浅野長矩が、はじめて故郷赤穂を訪れます。

「ここが赤穂か…なんと美しい…」

赤穂城にて、筆頭家老大石内蔵助とはじめて会見します。

「殿、ご無事で…」
「そちが内蔵助か、よく国許を守ってくれといるようじゃな。これからも、よろしく頼むぞ」

時に浅野長矩17歳。大石内蔵助25歳。

結婚・出産

貞享4年(1687)大石内蔵助は但馬国豊岡の京極家家老・石束(いしづか)源五兵衛の娘・理玖(りく)を妻として迎えます。時に蔵之介29歳、理玖19歳。理玖はやや大柄で、利発な女性だったと伝えられます。

この頃から、将軍徳川綱吉により、「生類憐れみの令」が次々と出されていきました。

もともとは捨て子や捨て牛馬を禁じることから始まり、犬猫に芸をしこんで見世物にしてはならないといったことも加わり、次第にエスカレートしていきました。

ついに幕府の台所で鳥獣や貝類を料理してはならないと言い出し、島流しになる者や切腹させられる者も出ました。

庶民は大いに迷惑を蒙りました。

翌年、改元あって元禄元年(1688)。この年、長男主税(ちから)誕生。元禄3年(1690)長女くう誕生。元禄4年(1691)次男吉千代誕生。元禄12年(1699)次女るり誕生。

松山城受け取り

元禄7年(1694)、36歳の大石内蔵助に、たいへんな仕事が舞い込みました。備中松山藩主の水谷出羽守勝美(みずのや かつよし)が急死し、相続人の勝晴も二ヶ月後に死に、水谷家は断絶。城地没収となりました。

それで、赤穂藩で備中松山城を受け取ることになり、大石内蔵助は浅野長矩の代理人として備中松山城へ先行することとなったのです。

「今度の城受け取り、つつがなくお役を果たせますように…」

信心深い大石内蔵助は赤穂の自分の屋敷内に稲荷堂を建てて、無事を祈りました。


大石稲荷社

2月18日、大石内蔵助一行は松山城受け取りのため赤穂を出発します。

「それにしても気が重いことよ…」

水谷家は三代にわたって松山城を守ってきました。お家取り潰しとなっても、城は簡単にはわたさないぞと構えていました。たとえ幕府の使いでも、一戦を交える覚悟の者もいました。

「さてどうなるか…」

2月21日、大石内蔵助は備中松山に入りました。お供の者たちに守られながら、松山城本丸に続く長い坂道を登ってきます。途中、どこから敵が襲ってくるかわからない。神経がピリピリします。

本丸にて。

大石内蔵助は水谷家の家老、鶴見内蔵助(つるみ くらのすけ)と会見しました。大石内蔵助と鶴見内蔵助、二人の内蔵助の間でどういう話し合いがなされたかは、わかりませんが、鶴見は大石内蔵助の人柄に、そうとう惚れ込んだようです。

「大石殿、水谷家のこと、おまかせいたし申す」
「無論です。水谷家の復興のため、力を惜しみません」

2月23日、松山城は無血開城しました。後に幕府は水谷勝美(かつよし)の弟、勝時(かつとき)に3000石を与えて水谷家を復興させています。そこには大石内蔵助の口添えがあったかと思われます。

大石内蔵助は城番として9ヶ月間、松山城に残った後、元禄8年(1693)8月7日、赤穂に帰還しました。

次回「大石内蔵助・忠臣蔵(三)揺れる赤穂」に続きます。

解説:左大臣光永

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