日蓮の生涯(六)佐渡流罪

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こんにちは。左大臣光永です。もう夏へ一直線という感じの気候ですが、
いかがお過ごしですか?

私は昨日、久しぶりに母校・学習院大学の学食で昼メシを食べてきました。一口、口に運ぶと、う~んこの、安定のまずさ。パサパサの米。萎びた野菜。塩辛すぎる味噌汁…すべてこれ学食の風情。しみじみ、懐かしさがこみ上げました。学食の建物はすっかりキレイになり、私の学生時代とはまったく違っていますが、料理のまずさだけは、何十年経っても変わらないなァと、感動がこみ上げました。

さて本日のメルマガは、
「日蓮の生涯(六)佐渡流罪」です。

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佐渡流罪

文永8年(1271)10月。日蓮は佐渡に島流しにされました。

佐渡で、日蓮に対する扱いは粗末の極みでした。塚原という、死体を置き去りにして風葬にする場所に、一間四面のお堂に、置き去りにされました。このお堂には仏像もなく、屋根板はずれて、壁はあばらで、雪が吹き込み、強烈な寒さです。昼は日の光もささず、夜は雪や雹が吹き込みます。

「ぶるぶる…なんという寒さだ。だが!迫害こそ喜び!!自分は法華経の行者である。不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の化身である…ふはは。いよいよ見えてきたわい」

日蓮が不軽菩薩の再来を自認し、塚原三昧堂で毎日題目を唱えているうちに、味方もあらわれてきました。

阿仏房は、承久の乱で敗れた順徳上皇の佐渡配流に伴って佐渡に渡ってきた武士でした。順徳上皇が1242年に亡くなって以来、夫婦で念仏しながら順徳上皇の墓を護っていました。だから念仏信者です。それで日蓮が流されてきた時、念仏の破壊者が来たと思い込みます。

「そのような危険人物、私が殺してやる」

そう考えて日蓮の庵に向かうと、日蓮は一人庵の中で手紙を書いていました。あれが日蓮か…覚悟せよ。しかしその時、もともと武士である阿仏房は、名乗らずに不意打ちするのは卑怯と考えました。

「私は阿仏房と申す念仏信者。日蓮、そなたは念仏の敵ときく。私は念仏信者としてあなたを殺さなければならない」

「ほう。私を殺しにきたか。ならば好きになさるがよい。だが今手紙を書いておる。鎌倉に残してきた、大事な弟子に当てた手紙じゃ。書きあがるまで殺すのは待ってくれ」

「は…?」

今殺されようとしているのに、弟子に送る手紙のことを考えている。阿仏房が想像していた危険人物とはずいぶん違いました。阿仏房は拍子抜けしてしまいます。

その後、夫婦で日蓮に食事を届けたりするようになり、いつしかすっかり日蓮の人柄にほれ込み、夫婦で念仏を捨てて題目を唱えるようになりました。

塚原問答

「まったくあの日蓮という坊主は、憎らしい」
「いっそ殺してしまえ!」
「そうじゃ、そうじゃ。元は殺されるはずが、恩赦で許されたというではないか。ではいっそ我等で殺ってしまおう」

念仏信者や律宗・真言宗の僧たちは、寄り合ってそんなことを話し合いました。しかし結局、地頭の本間重連にまずは訴えることとします。本間重連の答えは、

「日蓮には罪は無いから、丁重に扱うようにと執権殿から言いつけられている。もし日蓮に何かあれば、私の咎となる。カンベンしてくれ。戦うなら正々堂々、法論で戦えばよかろう」

文永9年(1272)正月16日。

日蓮の塚原三昧堂の前に、数百人の念仏僧が集まり問答を迫りました。しかし、問答こそ日蓮の望む所。鎌倉の高僧たちに比べれば、田舎坊主の学識などたかが知れていました。「あっ、いやそれは…」二言、三言で言葉につまり、知識の曖昧な所を突かれ、「ぐぬぬ…」ひるんだ所を、「ではあなたはそうおっしゃるが」、どうたらこうたら、だァーーっと容赦ない正論で攻め立てられ、アッという間に日蓮に説き伏せられてしまいます。

「ま、まいりました!!」

念仏信者たちは、二度と念仏は唱えないという請願書を、その場で書きました。これを塚原問答といいます。

『開目抄』

この塚原問答の後、日蓮はこれまでの自分の法華経信仰についての考えをまとめた『開目抄』を著します。儒教や老荘思想との比較から、法華経がいかに優れているか、真実の教えであるかを解き明かした書物です。また日蓮は『開目抄』の中で自分自身を「法華経の行者」と、何度も強調しています。

日蓮はなぜこんなにも迫害を受けるのか?松葉ヶ谷の法難に始まり、伊豆流罪、竜口の法難、そして佐渡流罪。行く先々で迫害を受ける。それは、『法華経』に予言されていることである。末法の世に『法華経』を広めようとする行者は、必ず迫害を受けると『法華経』に予言されている。今、日蓮が行く先々で迫害を受けていることこそ、日蓮が法華経の行者であることの、何よりの証である。そして日蓮は力強い筆で、こう続けます。

「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」

いわゆる「三大誓願」です。この『開目抄』によって日蓮は、他の思想や宗教との比較の中で法華経がいかに正しく真実の教えであるかを説き、末法の世にあって衆生を導く自分の立場をあきらかにしました。

二月騒動

文永9年(1272)2月。日蓮が『開目抄』を完成させた頃。

佐渡に、急を知らせる使いの船が着きます。

「なに!鎌倉と京で戦!?」

北条時輔は執権北条時宗の腹違いの兄で、六波羅探題南方を勤めていました。時輔は、弟である時宗に深い憎しみを抱いていました。

時輔は正妻の子でないので父時頼に憎まれ、京都に追いやられたのでした。一方、正妻腹である時宗は幼い頃から父に可愛がられ、執権になるべく帝王学をしこまれてきました。時輔の中では長年にわたる恨みが蓄積されていました。

そんな折、長年にわたって院政を行ってきた後嵯峨上皇が病の床につかれます。後嵯峨上皇は幕府のおかげで天皇になれたので、幕府には頭が上がらない、親幕府派の天皇でした。

後嵯峨上皇が崩御すれば…反幕府的な亀山天皇が親政を行うことになる…

「ようやく時が来た!!」

北条時輔は鎌倉への謀反を企てます。しかし、執権北条時宗は、これを見抜いていました。

「六波羅探題南方・北条時輔に謀反の疑いあり!!」

「うむ」

文永9年(1272年)2月15日。

鎌倉からの使者が京都に届き、北条時輔邸を襲撃せよとの指令を、六波羅探題北方・北条義宗(よしむね)に伝えます。

「謀反人、北条時輔を滅すべし!!」

ひゅん、ひゅんひゅん…

ぼ、ぼわ

燃え上がる、北条時輔の館。

「おのれ時宗、先に手を打ちおったかーーーーッ」

キン、カカン、キン

ずば

「ぐっはあああ。父上…」

炎の中で北条時輔は斬り殺されました。

これを二月騒動といいます。もちろん執権北条時宗が、潜在的な敵を排除したものです。

さて、日蓮はかつて予言していました。「北条の御一門に争いが起こりましょう」と。

日蓮の予言は的中したのです。鎌倉でも京都でも、まして佐渡の土民たちは大いに日蓮を畏れ、一目置くようになりました。

次回「日蓮の生涯(七)鎌倉帰還」に続きます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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