日蓮の生涯(三)伊豆流罪と小松原法難

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こんにちは。左大臣光永です。新しい一週間、心機一転して
始められましたでしょうか?

私は昨日、横浜駅西口の立ち飲みで飲んだんですが、 どうも立ち飲みならではのメリットが見つけられませんでした。 足が疲れるし、落ち着けないし、十分に酔えないし… ちっちゃな椅子を置いておけばいいだけなのに、 あえて立ち飲みにこだわる理由て何かあるんでしょうか?

まずは告知です。

7/16(土)静岡にて「声に出して読む 小倉百人一首」を開催します。 会場の皆さまと声に出して百人一首の歌を読み、私が 解説します。歌の内容、歌人の経歴、歴史的背景など 楽しくお話しますので、単なる丸暗記を越えた、深く立体的な 知識が身に着きます。今回は1番天智天皇から10番蝉丸までです。 http://goo.gl/uBvwXY

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さて。

本日のメルマガは「日蓮の生涯(三)伊豆流罪と小松原法難」です。

▼音声が再生されます▼

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Nichiren03.mp3

東京都大田区・池上本門寺 日蓮像
東京都大田区・池上本門寺 日蓮像

東京都大田区・池上本門寺 日蓮像
東京都大田区・池上本門寺 日蓮像

文応元年(1260)、日蓮は『立正安国論』を書きあらわし、国家の危機を救うには念仏を止めて法華経を信じるしか無いと、前執権北条時頼に訴えました。しかし日蓮の訴えは完全に無視されたばかりか、怒った念仏信者たちの襲撃を引き起こします。日蓮の松葉ヶ谷の庵は念仏信者の襲撃を受け、燃やされてしまいました。松葉ヶ谷の法難です。日蓮は辛くも難を逃れますが、ほとぼりが冷めるまで弟子を頼って下総に身を隠しました。

伊豆流罪

しばらく下総で隠れてから、日蓮はふたたび鎌倉に戻り、すぐに以前にも増して激しい説法を始めます。

「法華経を信じよ!念仏は邪教!念仏を信じるから世が乱れるのだ」

「な!まァた始めやがった!」
「懲りない奴!」

そこで念仏信者たちは、日蓮は「悪口の罪」を犯したと幕府に訴えます。「悪口の罪」とは人の悪口を言って、その結果、争いや殺人を引き起こすことで貞永式目に規定されている罪です。

「日蓮を伊豆に流罪とする」

5月12日、幕府はじゅうぶんな審議もしないまま、日蓮を伊豆流罪とします。

この決定は、前執権北条時頼の意思ではありませんでした。時頼は宗教に対しては公平で、日蓮に対しても生涯好意的でした。日蓮もそれを感じ、時頼については好意的な文章を書いています。

ただし現執権北条長時の父・極楽寺入道重時は熱心な念仏信者でした。そのため、執権である息子長時を動かして、日蓮逮捕に踏み切らせたものです。極楽寺入道重時は、前執権時頼が日蓮をなかなか処罰しないのに業を煮やしていたのです。

いよいよ由比ヶ浜から日蓮を乗せた舟がこぎ出そうという時。

「日蓮さま、日蓮さま」

「おお、日朗や」

17歳の弟子、日朗が舟に取りすがりました。

「西の山に日が沈むを見ては日蓮ありと思え。東の海に日が登るを見ては、日朗ありと思はん」

「うう…ぐすっ。ありがたいお言葉です。日蓮さま」

なおもトモヅナにとりつく日朗に、幕府の役人は、

「これっ!離さぬか」

ばしぃーーーっ

楷で思いっきり手を叩くと、ぐはっ。ついに日朗は手を離しました。この時のひどいケガのため、日朗は生涯字がうまく書けなくなったと伝えられます。

伊豆で日蓮は迫害も受けましたが、同時に 味方にも恵まれました。漁師の夫婦が日蓮の食事や身の回りの世話をしてくれました。地頭の伊東朝高は、病気を治してほしいと言ってきました。では法華経を信じてくださいますか。うむ。治せればな。では、やってみましょう。南無妙法蓮華経…そして見事、病気が治ったので。いや、すばらしい。あなたの法華経は本物だ。喜んだ伊東朝高は、海中から引き揚げた釈迦の像を日蓮に送り、法華経の信者となりました。

その間、日蓮はこのように島流しになったことは、ひとえに法華経の故である。今島流しになっているこの状況こそ、われこそ法華経の行者であるためだ。迫害はもとより予言されていることだ。迫害こそ喜ぶべきだと、いよいよ確信を強めていきました。

弘長元年(1261)、日蓮を目の敵にしていた極楽寺入道重時が亡くなります。重時の一周忌が過ぎた弘長三年(1263)、日蓮は罪許されます。おそらく前執権北条時頼が日蓮の赦免に力を尽くしたものと思われます。

「うむ。最明寺入道殿の公平なことよ。鎌倉にあの御仁があれば、あるいは大丈夫かもしれぬ…」

こうして日蓮は弘長三年(1263)鎌倉にもどっきましたが、その年の暮れ、最明寺入道・前執権北条時頼が病にかかり亡くなります。享年37。日蓮に好意的であった時頼が亡くなったことで、日蓮の生涯にはにわかに暗雲がたちこめることとなります。

小松原法難

翌文永元年(1264)秋7月。大彗星が見られます。

「ああっ、何だこりゃ!」
「こんなん、見たこともねえぞ」

彗星は長く尾を引き、空一面にスーーッ、スーーッと走り、二カ月間にわたって観測されました。

「うむむ…なんたる天変地異。これぞ、外国が襲ってくる前兆」

日蓮は危機感を高めますが、伊豆流罪から戻った直後のことであり、ひとまず体勢を調えようと、故郷・小湊に帰省します。

父の死に目にはあえなかった日蓮ですが、母は病気ながらまだ健在なので、日蓮は熱心に法華経の教えを説きます。また、清澄寺の師・導善房やかつての兄弟弟子たちの間にも、念仏に心うばわれている者がいたので、法華経こそ正しいと、布教を行うのでした。

「なに!日蓮が戻ってきた!」

地頭・東条景信は熱心な念仏信者で、亡くなった極楽寺入道重時の家来であったとも言われます。東条景信からすると、日蓮は憎き敵なわけです。

文永元年(1264)11月12日。

日蓮は工藤吉隆という領主に招かれて法話に向かう所でした。念仏信者の襲撃に備えて、6、7人の屈強な弟子が日蓮を警護していました。

東条松原の大路に差し掛かった時、

「それっ!殺ってしまえ!!」

わーーっと襲い掛かかる数百人の念仏教徒。

「ぬおっ!来たか念仏衆めッ」
「日蓮さま!ここはお任せください」

キン、カン、キキーン

弟子たちが必死に戦うも、射る矢はふる雨のごとく、打つ太刀は稲妻のごとし。もとより多勢に無勢でどうしようもなく、味方は討たれ、あるいは大事の傷を負う中、

「死ねい日蓮!!」

ずばーーーっ

「ぐはっ」

額を割られる日蓮。飛び散る鮮血。もはや助からぬというその時、

「日蓮殿ーー!」

どかかっ、どかかっ、どかかっ、どかかっ…

工藤吉隆が郎等たちを引き連れて駆けつけ、防ぎ戦いますが。

「ぐはっ!!」

工藤吉隆は斬られてしまいます。

「死ねい日蓮」

東条景信が馬上から振り下ろした太刀を日蓮は、

じゃらっ。がちーーん

数珠で受け止めるも、すぱっ。刃の切っ先で額を割られ、ぱあっと飛び散る鮮血。

しかしこの時なぜか東条景信は、どうと落馬し、日蓮は難を逃れることができました。
とはいえ二人が討ち取られ、多くの信徒が重症を負いました。

「ああ…なんということに…」

わが身一つの困難なら、法華経ゆえの喜びよと、意にも介さない日蓮でしたが、弟子が討たれることには激しく悲しみ、うっ、ううっと熱い涙を流しました。

これを小松原の法難といいます。

度重なる迫害にも、日蓮はめげませんでした。むしろ、いっそう確信を強めました。

「このように迫害を受けることこそ、日蓮が法華経を正しく伝えている証拠である。そうだ。我こそは、日本一の法華経の行者である」

「我こそは日本一の法華経の行者」

その確信は、いよいよ強まっていきました。

次回「蒙古の使者」お楽しみに。

講演会と商品のお知らせ

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