鑑真和上(三)日本へ

こんにちは。左大臣光永です。

京都御苑の九条池で、アオサギをながめてきました。アオサギはいいです。なによりあの、浮世離れした雰囲気が好きです。

イメージとして、アオサギが赤ちょうちんの居酒屋でクダ巻きながら、政治が悪いとか野球選手の誰それはダメだとか言ってる姿が浮かばないですよ。アオサギはそういうことを、しないと思います(スズメはやりそう)。アオサギは、俗世間の外にいる感じが、いいです。

本日は「鑑真和上(三)日本へ」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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4/28(日) 京都で、声を出して読む 小倉百人一首(最終回)
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

鑑真和上 以前の配信ぶん
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Nara.html#Ganzin

第十次遣唐使

天平勝宝4年(752)、遣唐使がふたたび派遣され長安に入ります。大使は藤原清河。副使は吉備真備・大伴古麻呂(おおとものこまろ)です。

遣唐使一行は玄宗皇帝に拝謁すると、鑑真和上と五人の僧の名を挙げて日本に招きたいと願います。

しかし玄宗皇帝は言いました。

「日本の君主は道教を崇めていない。道教の道士も連れて行け」

道教の道士も連れていくならば鑑真の渡航をゆるすという条件でした。しかし日本からすれば仏教の戒律は必要でも、道教などいらないのです。迷惑なおまけです。

結局、皇帝に許可をもらうことはあきらめました。

翌753年10月、遣唐使一行は揚州に入り、唐にいた阿倍仲麻呂をさそって、鑑真の滞在中の延光寺を訪ねます。

遣唐大使藤原清河・副使大伴古麻呂・吉備真備・阿倍仲麻呂らは鑑真に言います。

「私どもは大和尚が五度も日本に渡り仏教を伝えようとされたことを存じ上げております。このたび、和上が日本に戒律を伝えていただけるよう、中国皇帝に奏上しましたが、認められませんでした。願わくは和上、自ら手立てを講じていただきたいのです。私どもには物資を積み込む舟が四艘ございます。装備もじゅうぶんにございます」

「わかった」

753年10月19日、鑑真は夜ひそかに竜興寺を出て、船に乗ろうとします。すると後ろから二十四人の沙弥が泣きながら追いかけてきました。

「大和上、今船が東に出航すれば、ふたたび見えることは難しいでしょう。どうか結縁に預からせてください」

そこで鑑真は船を降りると、彼らに戒を授け、あらためて船に乗り、蘇州の黄泗浦(こうしほ)という港に向かいました。そこで藤原清河らが船団を整えて、待っていました。

753年10月23日、藤原清河は鑑真らを遣唐副使船以下の三艘の船に分乗させました。

ところが全員乗せた後で藤原清河はこんなことを言い出します。

「当局が嗅ぎ回っている。もし密航者が発見されれば外交使節としてまずいことになる。また風に吹き戻されて唐国の領海に帰り着くようなことがあれば刑事問題になる」

そこでいったん乗った僧たちを全員おろし、留まらせることにしました。ここまで乗り気だったものの、よくよく考えたら自分の立場が悪くなるので保身に走ったのでしょう。

清河はそれでよかったのですが、遣唐副使・大伴古麻呂は違う考えでした。

(和上にお願いに上ったのはこちらではないか。それを直前になって断るとは、失礼にも程がある。大使がそれなら私にも考えがある)

この大伴古麻呂は後には橘奈良麻呂の変に連座して藤原氏にはむかい、処刑される人物です。なかなかに筋の通った熱血漢だったようです。

11月10日の夜、

とととん…

窓を叩く者がありました。

「鑑真さま、鑑真さま」
「ん?そなたは…」

「遣唐副使をつとめる大伴古麻呂さまの使いの者です。
鑑真さま、すぐに抜け出してください。舟にお連れします」
「おお!それでは!」

鑑真一行は夜のうちに貨物にまぎれ、藤原清河には知らせないまま、遣唐使船に乗り込みます。鑑真一行は僧が14人、尼が3人いました。2日遅れの11月13日、明州から駆けつけた普照が、吉備真備の遣唐副使船に乗ります。

11月15日、四艘の遣唐使船は蘇州から出航しようとします。しかし船の舳先を雉が飛んだので、この日はやめて翌日の出航としました。なにか雉を不吉とするような迷信があったようです。

時に十五夜。空には満月がこうこうと輝いていました。阿倍仲麻呂は36年過ごした中国を去る感慨に包まれ、また故郷奈良の春日の里を思って、歌を詠みました。

天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも

11月16日、四艘の遣唐使船は同時に蘇州から出航しました。第一船に遣唐大使藤原清河が、第二船、遣唐副使吉備真備の船には普照が、第三船、遣唐副使大伴古麻呂の船には鑑真が、第四船には阿倍仲麻呂が乗っていました。

しかし。途中暴風雨が襲います。藤原清河の第一船は唐に吹き替えされ、阿倍仲麻呂の乗った第四船はベトナムまで流されました。

鑑真の乗った第三船は、12月20日、薩摩の秋麦屋浦(あきめやのうら。鹿児島県坊津(ぼうのつ)町秋目浦(あきめうら))にたどり着きました。普照の第ニ船は年を越えてから紀伊国の牟漏の崎(いまの潮岬)にたどり着きました。

742年に第一回の渡航計画を立ててから、延べ12年間、6回にわたる鑑真の航海は終わりました。参加者のうち36人が亡くなり、200人余りが心変わりして去っていました。はじめからのメンバーで初志貫徹して日本にたどり着いたのは、鑑真と、弟子の思託と、日本僧の普照の三人だけでした。

次回「鑑真和上(四)最終回 唐招提寺」お楽しみに。

京都講演■京都で声を出して読む 小倉百人一首
4/28(日)
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

86番西行法師~100番順徳院。最終回です。

解説:左大臣光永