鑑真和上(最終回)唐招提寺

こんにちは。左大臣光永です。

日に日に春めいてくる昨今、いかがお過ごしでしょうか?先日、北野天満宮の隣のうどん屋で食べてたら、厨房から店のおばちゃん二人が話している京都弁がかすかに響いてきました。はんなりと耳に心地よく、なつかしく感じました。年配の方の京都弁は、いいものですね。

本日は「鑑真和上(四)最終回 唐招提寺」です。

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鑑真和上 以前の配信ぶん
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Nara.html#Ganzin

歓迎される鑑真一行

753年12月20日、鑑真の乗った遣唐使船団の第三船は薩摩の秋麦屋浦(あきめやのうら。鹿児島県南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)秋目(あきめ))にたどり着きました。

上陸後、鑑真以下24人は大宰府に入り、そのまま大宰府で年を越し、年明けて北九州から船出して、瀬戸内海を通って、天平勝宝6年(754)2月1日、難波津につきました。唐僧崇道と故大僧正行基の弟子・法義が鑑真らを迎え、接待しました。鑑真と同じ中国人に歓迎させたのは聖武上皇の気遣いだったでしょうか。

2月3日、河内国府に入ります。大納言藤原仲麻呂が使いをよこして歓迎しました。また多くの高僧たちが迎えにやってきて鑑真に拝謁しました。

2月4日、河内を後にした一行は竜田越を越えて大和をめざします。山道を下るにしたがって視界が開け、広々した盆地が広がって見えます。大和盆地です。平群(へぐり)の駅で一休みした後、左に法隆寺、法起寺、中宮寺などの堂塔の屋根を見ながら進んでいくと、やがて南北に走る広い街道に出ます。

下つ道
下つ道

推古天皇の昔、聖徳太子が開いた下つ道です。南に進むと藤原京右京と畝傍山の合間に至り、北に進むと、平城京の南の入り口、羅生門に至ります。一行は北へ向かいました。

しだいに大きく見えてくる羅生門。門の外では、聖武上皇の勅命により安宿王(やすかべおう)が使いとして鑑真らを迎え、拝みました。安宿王は長屋王の息子で、母が藤原氏であったため長屋王の息子たちの中で唯一処罰されなかった人物です。この頃は長屋王の疑いもすっかり晴れ、安宿王は正四位下にまで至っていました。

鑑真らは東大寺に案内されます。東大寺南門では平城京の僧侶や役人たちがこぞって鑑真一行を迎えました。


東大寺南大門

東大寺別当良弁(ろうべん)が鑑真一行を大仏殿に案内します。そこには、つい昨年開眼供養を終えたばかりの金銅の盧舎那仏像が鎮座していました。

奈良の大仏
奈良の大仏

「これは聖武太上天皇が天下の人々を勧誘して造られた金銅の像で、高さが50尺もあります。唐にはこれほど大きな像はありますか?」

聞かれて鑑真は、通訳を通して、

「ありません」

と答えたと。

良弁伝はく、「此は是れ大帝太上天皇、天下の人を引きて共に良縁を結び、この金銅像を鋳たり。座高、笏尺(しゃくじゃく)の五十尺あり」と。また問ふ、「唐中に頗(すこぶ)る此(かく)の如き大像ありや」と。延慶をして訳語せしむるに伝はく、「更に無し」と。

『大和尚伝』

「延慶」は通訳の僧の名前。

以後、鑑真一行は東大寺を当面の滞在場所とします。

翌2月5日、唐の僧、道璿(どうせん)律師、インドの僧、菩提僊那(ぼだいせんな)が慰問に訪れ、宰相・右大臣・大納言以下の役人たち100人あまりがご機嫌伺いをしました。

月が変わって三月になると、聖武上皇の勅使として吉備真備が来て、上皇のお言葉を伝えました。

「大徳和上は遠く海をわたり、この国に来られた。誠に朕の意にかなうものである。とても喜ばしい。朕が東大寺を建立して10年あまりが建つ。大仏殿の西に戒壇を建てて戒律を伝授したいと思っていた。そういう心を抱いてから、日夜忘れたことがない。。今、大徳らが遠方から来られ戒を伝えようとしている。誠に朕の意にかなっている。今後、戒を授けるることと律を伝えることは大和上に一任する」

大徳、遠く滄波を捗り、此の国に来至(きた)る。朕、先に東大寺を造り、十余年を経たり。大仏殿の西に於いて、戒壇を立てんと欲す。此の心有りてより、日夜忘れず。今、諸大徳遠(はるか)に来たり、朕が心と冥契(めいけい)す。乃ち是れ朕の感有るか。今より已後(いご)、授戒と伝律は一に大徳に任す。

『唐大和上東征伝』

その年の4月はじめ、東大寺の大仏殿前に戒を授けるための壇(戒壇)を設けました。まず聖武上皇が、ついで光明皇太后が、ついで孝謙天皇が菩薩戒を受けました。ついで430人あまりの沙弥(僧)が具足戒を受けました。これが日本発の登壇授戒です。

東大寺 戒壇院
東大寺 戒壇院

5月1日、天皇らが授戒した壇の土を運んで、大仏殿の西側にあらたな戒壇院を築きました。治承4年(1180)平重衡の焼き討ち、永禄10年(1567)三好・松永の兵火で焼失し、現在の戒壇院は享保18年(1733)再建されたものです。

唐招提寺

その後、鑑真は数年を東大寺で過ごし、朝廷から天武天皇第五皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の館跡(現奈良市五条町)を下されると、戒律を学ぶ僧が修行するための道場を築きました。後の唐招大寺です。

唐招提寺 金堂
唐招提寺 金堂

はじめ鑑真和上は役人に招かれてこの地を訪れた時、土を舐めから、弟子の僧に「この地には福がある。寺を建てるのによい」そう言ったと伝わっています。

鑑真は唐招大寺で静かに余生を過ごしました。天平宝字7年(763)の春ごろから、体調がすぐれなくなります。

この頃、鑑真の弟子の忍基(にんぎ)が夢をみました。唐招提寺の棟梁の一部が砕け散るという夢です。

(和上のお命ももう、長くはないのだ…)

そう悟った忍基は、ほかの弟子たちととももに、鑑真の坐像をこしらえました。現在、唐招提寺の御影堂に安置されている国宝「鑑真和上坐像」です。

ただし御影堂の鑑真和上像は年に数回しか御開帳されないので、向かいの開山堂に、平成25年(2013)から「御身代わり像」が安置されています。ふだんはこちらを拝む形になります。

天平宝字7年(763)5月6日、鑑真は唐招提寺の宿坊にて、西に向かい端座したまま、息を引き取りました。享年76。死んで3日経ってもまだ体温が感じられたので葬らず、後に火葬に付した時には山に香気が満ちたといいます。

唐招提寺 金堂
鑑真和上の墓 唐招提寺内

唐招提寺には平城京の宮殿から移築した講堂、金堂や宝蔵…歴史的建造物の数々が、天平文化の息吹を今日に伝えています。金堂は鑑真の没後に建てられましたが、唯一現存する奈良時代の金堂です。

次回は「生麦事件」についてお話します。お楽しみに。

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「藤原道長の生涯」解説音声とテキストです。道長の祖父師輔・父兼家の時代から、道長が亡くなるまでを21回に分けて語っています。

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86番西行法師~100番順徳院。最終回です。

解説:左大臣光永